書物断簡 
1998年 E+D+P(東京エディトリアルセンター)最終号に掲載されたものです
本の重さ

太宰治は「女の決闘」という作品の冒頭で、なにかにつけて「勉強いたしております。」というポーズをとりたがる徒輩を痛烈にこきおろしたあと、読者に向かってつぎのように書いている。

鴎外だって、嘲っている。鴎外が芝居を見に行ったら、ちょうど舞台では、色のあくまでも白い侍が、部屋の中央に端座し、「どれ、書見なと、いたそうか。」と言ったので、鴎外も、これには驚き閉口したと笑って書いて在った。
諸君は、いま私と一緒に、鴎外全集を読むのであるが、ちっとも固くなる必要は無い。だいいち私が、諸君より数段劣る無学者である。書見など、いたしたことの無い男である。いつも寝ころんで読み散らかしている、甚だ態度が悪い。だから、諸君もそのまま、寝ころんだままで、私と一緒に読むがよい。端座されては困るのである。(太宰治「女の決闘」、新潮文庫『新ハムレット』所収)

学生のころ初めてこれを読んだときおおいに共感をおぼえた。小学校からこのかた、教科書を開いたり書き物をしたりといった机に向かってする行為にどうしても馴染めなかった。たぶん、そういう行為にはどこか「勉強」の義務のにおいがつきまとっていたからだと思う。それで私もまた、まともに「書見」などいたしたことがなかったのだ。

本を読むのはたいてい畳の上でだった。ごろりと寝ころんでひじを支点に片腕を立て、その手の先に本を持って読むのが通例のスタイルだった。この習慣はいまでも変わらない。ときに机に向かって本を開くこともあるが、それは読書というよりも調べ物のためである。そうではなくて、なにかの本を味わいながら読もうとするときは、やはり寝ころぶことにしている。

昨平成九年の秋口、結腸がんの手術のため一ヵ月あまりの入院をした。日常の一ヵ月はあっというまに過ぎるが、病院での一ヵ月は時間の歩みが遅く感じられるだろう。そう思って、入院するとき何冊かの本を携えて行った。ベッドの上にごろりと横になって、日ごろ読めなかった本をまとめて読んでやろうと考えたのである。

ところが、この目論見はほどなく頓挫した。私の入った病院は六人部屋で、看護婦や医師、見舞客の出入りが頻繁にあり、気分が落ちつかないという事情もあったが、それよりも食事が制限され点滴を主要な栄養源にしている身にとって、萎えた腕で支えて読むには本はいささか重すぎたのである。

退院してしばらくのち、モリサワからDMが届いた。飯田橋にある同社ビル一階のMOTS(モリサワ・タイポグラフィ・スペース)で、「ドイツの最も美しい本1996」展を開くという案内だった。この催しは、1996年中にドイツ国内で発行された新刊書の中から、ドイツのエディトリアルデザイン財団が「最も美しい本」として選出した六十冊を展示するもので、展示物はすべて手にとって見られるということだった。

そこで通院のついでに飯田橋まで足をのばしてMOTSに立ち寄った。展示されている本をかたっぱしから手にとってみると、ドイツの書物は日本のそれに比べて軽いものが多かった。もとより両者の目方を計り比べたわけでもなし、私の勝手な印象にすぎないが、一般論として日本の本は重い! と言えるように思った。この違いは書籍用紙によるのだろう。実際、ドイツの「最も美しい本」に使われている用紙は、日本の書籍では見たことのない紙だった。

その後、松本八郎さんの事務所を訪ねたおり、昭和十年三月に大阪の創元社が刊行した横光利一の『機械』 を見せてもらった。これが四百ページを超すボリュームながら、手にとってみるとじつに軽いのである。こういう本なら入院中でも苦もなく読めただろうと思われた。

この『機械』の造本は、分類でいえば中綴じということになるのだろうが、週刊誌のような針金綴じではなく、ひもで綴じる和帳仕立てになっていた。例えるならば古通豆本を大きくしたようなつくりである。こういう体裁で厚い本を仕立てるには、よほどしなやかな紙を使わなければならない。そうでなければ、本を閉じようとしても紙の弾力でパッと開いてしまうような、そんな代物になってしまうからだ。

松本さんによれば、製本家として優れた仕事を続けている神戸の須川誠一氏も、この本を見たとき「混ぜ物の多い現在の紙では、こういう造本は不可能です」と語っていたそうである。
本づくりにあたって編集者や図書設計家は、タイポグラフィ、グラフィック、組版、ページ割り付け、印刷、用紙など多くの要素を検討する。このうち紙については風合いや色味、紙の厚さを示す斤量、単価などは吟味するものの、完成後の本の重さや、ページを繰るときのしなやかさまでは、あまり考慮しないのが現状ではないだろうか。もっと軽く、そして、もっとしなやかな紙を使った本づくりが望まれる。

まぼろしの紙魚

紙魚という文字の字面には、どことなく風雅な趣がある。しかし私は、「しみ」というその読みから人間でいうシミ、ソバカスの類を連想し、長いこと紙の地汚れのようなものだと思っていた。のちに、これが紙を喰い破って本に穴をうがつ小虫のことだと知ったが、それが何によってだったか、ついぞ記憶にない。それはともかく、紙魚なる小虫を実際に見てみたいと思っているのだが、いまにいたるも一度としてお目にかかったことがない。私の書棚は紙魚が生息しにくい環境なのだろうか。これについては、故・庄司浅水氏が著した「書物の敵」のなかに、つぎのようなくだりがあった。

蠹魚(しみ)、英語でいう、bookworm には、二通りの全然異なった意味がある。一つは文字通り書物を食して生活している虫で、「書蠹」または「紙魚」ともいう。次は「書物狂」ないしは「読書狂」のことで、この書物狂も書物自身にとっては、なかなか油断のならぬ大敵であるばあいもあるが、これはまた別に章を改めて述べることにし、ここでは前者についてだけ記すにとどめる。蠹魚は書物にとって極めて破壊的な敵であった。私がここで「あった」という過去形の言葉を用いたのは、過ぐる五、六十年間、あらゆる文明国において受けてきた蠹魚の害は、それ以前と比べて著しく減少したからである。これは古書に対する尊敬の念が一般的に発達し、増し加ってきたため——というよりは、むしろ年々歳々、年と共に高価になってきた書物の所有主が、必然的に書物を大事にしてきたため——書物の保存法に心が用いられ、注意されてきた結果であり、それと同時に、蠹魚のあまり好まぬ紙やインキによって、書物が生産されるようになったためでもある。(庄司浅水「書物の敵」、講談社学術文庫『書物の敵』所収)

『書物の敵』初版がブックドム社から刊行されたのは、1930年という。その時点ですでに書物は紙魚の好まないものになっていたとしたら、さらに六十余年を経た現在の本は、なおさら紙魚にとって好ましくないものになっていることだろう。

古書籍商の世界では、江戸期までの書物を「古典籍」、明治から戦前までの本を「古書」、戦後に出た本を「古本」と呼んで区別しているという。それに倣っていえば、古典籍はおろか古書すら一冊もない私の書棚に、紙魚が一匹も寄りつかないのは当然のことかもしれない。

もちろん紙魚の害からまぬがれることは、書物にとっては良いことには違いないだろう。しかし、それが混ぜ物で肥満し、しなやかさを失った紙のもたらす<成果>の一端だったとしたら、私たちが別に支払わされる代償もまた大きいように思われてならない。

スーパーの店内にならぶ色鮮やかでキレイな野菜やくだもの……薬品をふんだんに施してあらゆる虫をシャットアウトし、ワックスで磨きをかけて外見を美しく装ったそれら<商品>と同様、現在の本は過度な流通思想の権化のように感じられるのである。

この五十号をもって『E+D+P』は終刊となる。日本の出版が事業としても理念としても拡散を続け、もはやブレーキがかからなくなっている今日、この小冊子の存在意義はますます重いものになると思っていた私にとって、終刊はおおいに残念なことである。

しかし、先ごろ受け取った「お知らせ」によれば、『E+D+P』の幕を閉じたあと新しいメディア発刊の計画があるということなので、いささか安心した。新メディアの名称は、『E+D+P』巻頭エッセイの表題をそのまま引き継いだ『紙魚のつぶやき』ということだ。

このメディアに生息する「紙魚」は、例の小虫と同様、まっとうな出版環境がなければ生きられない存在だろう。ただし、紙を喰い進み書物にダメージを与える小虫と違って、みずからの欲する本を生み出そうとする存在である。また、息苦しい出版状況を喰いやぶり、風穴をあけようとする存在でもある。私は、このメディアを温床として同類の「紙魚」がどんどん増殖すればいいと思っている。
と、オチがついたところで、与えられた誌面スペースをほぼ使いつくしたから、これにて擱筆。


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