佐藤章さんを偲んで 

佐藤豊 広田稔明 平澤義正 片塩二朗 片山敏胤 外園勉 南悠一 山口岩男

 


静かにお酒を呑む人でした タイプフェイスデザイナー  佐藤 豊
章さんが業界紙(写植タイムス)の記者をしていた20年ほど前、同じ下町育ち・同世代ということで話が合い、彼との交流が始まりました。
月に一度ぐらい、取材の帰りに彼は私の事務所に現われました。そして夜遅くまで二人でお酒を呑みながら写植やデザインの話をしたものです。
書体デザイナーを志す私が吐き出す悩みとか夢を、彼は静かに聞いてくれました。話す相手がいるというのは心強いものです。そのころ聞いて貰ったことを少しずつ実践し、私は現在までやってこれました。

章さんが埼玉に居を移し、編集者として独立してからは、夜遅くまで二人で呑むことは少なくなってしまいましたね。
読みやすい出版物を制作するために、最近の彼はMacintoshを駆使し、組み版まで自分で仕上げていました。それらの仕事が何点か形になり、これからが彼の本領を発揮する時期だったのに本当に残念です。

闘病中の4月に自宅を訪ねたときは、近所の公園を一緒に散歩できたので少し安心していたのですが…。
私もいつか、そちらへ行きます。その時は、昔のようにお酒を呑みながら、ゆっくり話しをしましょうね。



章さんへ── 編集工房ブライトルーム  広田 稔明

章さんから退院の知らせを受けて以来、延々ご無沙汰が続いてしまっていたのですが、奥さんの名前の封書を見た時は一瞬「まさか!」という思いが走りました。急いで開封して手紙を読み、それからしばらくは言葉がありませんでした。ショックというよりはどうしようもない無力感におそわれました。もっと前に近況のひとつも何でたずねなかったのだろうと悔やまれてなりませんでした。

 早い、早すぎるよ、章さん。
 編集のフィールドでもっともっと活躍して、多くの実績をあげて欲しかったのに…。
 もう声をかけることすらできない。

無念の思いがつのったのは誰よりも章さん自身でしょう。ぼくらは章さんの足跡を辿り、受け継ぐものを見つけてそれを携えていきたいと思います。それがこんなにも早く世界を隔てなければならなくなった章さんとのせめてもの絆になると思います。



江戸っ子 佐藤さん 平澤デザイン事務所  平澤 義正
飲むほどに、江戸っ子独特のテンポの良いべらんめぇ調が、気持よい響きで飛び出してくる人だった。駒込神明町生まれの私と、入谷育ちの佐藤さんとは、何かにつけても良くウマが合ったのも当然だったように思う。

埼玉県の刊行物のデザインアドバイスでは一緒になって歯に衣着せぬ意見を述べた。
そんな時の佐藤さんの口調は、大変やさしくて、ゆっくりと噛んでふくめるような指導ぶりで、あまりの行儀よさに瞠目したほどだった。私などは、飲んでいるときと変わらない調子でポンポンまくしたてていたので、反省することしきりであった。
県庁からの帰りには、必ず二人して赤提灯の方へ足を向けてしまい、またしても江戸っ子同士に戻って、快く酔い大いに語り合った。

「ちょいと具合が悪くて、このところ飲(や)ってないんですよ」と電話をもらったときは、声も大人しくチョッピリ淋しそうだった。
が、半年ほどして退院を知らせてきてくれたときは、ガラリと明るい調子で、
「近いうちにどこかで!」と本当に嬉しそうだった。
もうそろそろ熱燗でも良い時季だし、声をかけてみようかな…と思っていた矢先に、奥さんからの訃報だった。浅草界隈を肴にしてもっと沢山懐かしい話をしたかったのに…。

佐藤さん、江戸っ子は気が短けえんだ…とはいうものの、何も四十八で往っちまうなんて…そりゃ早すぎるよ。まったく。
折角、江戸前の友達が出来たと喜んでいたのに本当に残念で仕方ありません。
これからは、どうか向でゆっくりとしてくださるよう、心から祈っております。



佐藤章さん、ちょっとはやすぎたよ
写真植字システムの興亡をみたひと 朗文堂  片塩 二朗
ここのところ親しい友人をおくることがふえてきました。それもかなしいことに、わたしよりわかい友人を何人かうしないました。佐藤章さんもそんなおひとりでした。
含羞のひとでした。いつもはずかしげなほほえみをたたえたひとでした。そしてときおりドキッとするような痛烈な風刺をとばすひとでした。

このひとと積極的にお会いするようになったのは、「印刷之世界社」の写真植字業界紙『写植タイムズ』に、フィニッシュワークの特別ページを設けようとして、積極的にうごかれていたころのことでした。つまりありきたりな業界紙にあきたらずに、大胆な紙面改革に佐藤さんがいどんだころのことでした。
あのころは佐藤さんもわたしもまだ若かったし、十分生意気なころでもありました。ふたりとも「写植やさん」とか「業界紙の記者」とよばれることに、なにかしら抵抗がありました。写真植字機はつかっていても、こころざしは文字組版業者であり、ほこりたかい記者であり、なにより本物のタイポグラファであるという、生硬な自意識だけはひと一倍つよくもっていました。
よくかたりあかしたものでした。独身時代の佐藤さんは台東区の合羽橋商店街のなかにご自宅があり、わたしは当時足立区の団地ずまいでしたので、よく回り道をしてご自宅までおおくりしたものでした。あのころはわたしもお酒を飲んだのですが、おもいだすと佐藤さんはなにも割らずに、ウィスキーをグイグイやっていたように記憶しています。あのお酒がいのちをちぢめたのでしょうか……。

このころの仲間に、京橋の有朋社を退社していた林隆男さんがいました。林さんはある事情があって、文字組版者として勤務していた有朋社を退社して、桑山弥三郎さんの事務所で無聊をなぐさめていました。
そんな林さんがつくった書物に『レタリングテスト』(桑山弥三郎・林隆男共著 グラフィック社 1974)があります。共著とはいえ、この書物はほとんど林さんがおひとりで執筆をされました。桑山さんはむしろ図版の提供者として協力されたとおもいます。

ともかくあのころの林さんは熱心で、毎日わたしどもの会社におしかけてきては、原稿をかいたり、版下を校正したり、おおさわぎでした。
じつはこの書物の文字組版のオペレーションはわたしが担当しました。なにしろ林さんも有朋社時代は「京橋に林あり」といわれたほどの、名組版者として鳴らしたひとでしたから、なにかとわたしの組版のこまかいクセが気になったようです。ところがわたしも当時は「東京で一番の文字組版者はオレだ」くらいに傲慢そのものでしたから、よく衝突しました。

「林さん、そんなにいうなら機械をかしますよ。自分でやってくださいよ」
「そういうわけじゃなくて、文意からいってこのスペースはおかしいでしょう」
「文意というより、ここは読書のリズムを重視したほうがいいんじゃないですか」
「そうかなぁ、わたしはここには 4/16em のスペースがほしいんだけど」
「だから、林さん、実際に声にだして読んでくださいよ。ここはすばやく読むところでしょう。だからノースペースのほうが絶対にいいとおもいますよ」

そんなこんな、ささいなところにこだわって制作にあたりました。手動型写植機のころでしたが、おそらくわが国ではじめて、欧文組版用の em の機能をつかって、全角ベタや均等詰めではない、特殊な組版をおこなっていました。10Qの 1/16em とは 0.15625ミリのことで、当時のまだ発展途上にあった写真植字機ではなかなかコントロールができなかったものでした。
いまにしておもえば、ふたりとも組版者の主張がつよすぎて、書物としての構成力や展開力に欠けていたのかもしれません。つまり枝葉にばかりこだわって、書物の根幹をわすれてしまったようです。ですからこの書物はあまり売れなくて、いつのまにか忘れられてしまったようです。グラフィック社さんにはわるいことをしました。

佐藤さんはそのころはまだ学生だったような気がしますし、すぐに企画の会社にはいられました。なぜ朗文堂にくるようになったのか記憶にありませんが、ときおりわたしと林さんの論争にだまって加わっていました。

なんにせよ自分がかかわった書物ができあがる日は待ちどおしいものです。『レタリングテスト』ができあがった日、当時四谷四丁目の交差点のちかく、新宿御苑のへりにあった桑山さんの事務所から、御苑の塀にそって三人であるきました。ともかくうれしくて、盛場にくりだそうということになったのです。
その日のことはなぜか鮮明に記憶しています。まだ作業中の桑山さんの事務所でハシャグわけにもいかず、どこか喫茶店でも……ということになって、暑いひるさがりの途を結局新宿駅まで歩いてしまったようです。まず喫茶店で、それから結局アルコールで乾杯を……ということで、歌舞伎町にくりだすことになりました。

あまり知られていないようですが、林さんはダンス、とりわけジルバがお上手で、華麗なステップで「舞姫」たちと踊るのを愉しみにしていました。そんなとき佐藤さんとわたしはイマイマしげに、しかし顔はにこやかに、酒をなめつつ見ているだけでした。
その後林さんは「タイプバンク」を桑山さんからゆずられて社長に就任しました。最初は「日本の ITC をめざす」とおっしゃっていました。 けっして得意ではないビジネス、とりわけ書体開発と、それを組版システムをともなわないで、単体で販売するという先行例のないビジネスは、さまざまな困難があったとおもいます。毀誉褒貶もいろいろありました。あしざまにののしるひともいました。しかし「タイプバンク」初期のころのわたしたちは、よい仲間であり、わるい呑み仲間でもありました。

その後林さんとは愛憎こもごもがありました。ある個性のつよいひとがあいだにはいってからは、とかくふたりのあいだもギクシャクしたものになりました。ところが一度目の入院、そして退院してから、めずらしくフラッと林さんがわたしをたずねてきました。いつものにこやかなかおではなく、やまいをかかえたひとにみられるおもい翳のさす表情でした。
「片塩さん、わたしのはどうもよくない病気なんですよ」
「…………」
「いま会社はメイッパイ手を広げちゃってるんですね。これからマトメにはいって、なんとか女房が引き継げるようにしようとおもってるんですけどね」
「そんな弱気をだしちゃだめですよ! やまいはキからっていうじゃないですか」
「いや、もうそんな段階じゃないみたいなんですよ」
「…………」
「だからもし女房がいきずまってきたら、片塩さん、またお節介やいてほしいんだけど」
「もう憎まれやくはかんべんしてくださいよ。それより元気をだして!」

林さんがわたしどもを訪ねてきたのはこれが最後でした。しばらくお元気だったのですが、やはり病魔は確実に進行していたのでしょうか……。1994年11月15日、57歳というわかさで胃がんのために、黄泉の国にたびだちました。

佐藤さんの人生は順風満帆にみえました。けっして人生を器用にいきたひとではなかったのですが、しあわせな家庭をきずかれて、ときおりみる表情はあかるかったし、「フッフッフッ」とちいさくわらうくせもかわりませんでした。しかしふたりの共通基盤だった写真植字業界は、いつのまにか凋落しつつありました。ですからそれぞれの生きかたを摸索せざるをえませんでした。わたしは印刷と編集者に転じて、ちいさな出版社を開設することになりました。

佐藤さんは「エディトリアル」というジャンルにこだわられて、多川精一さんや松本八郎さんというよき先輩とのお付き合いがはじまっていました。『写植タイムズ』以来の写植業界でも、得がたい人材として重宝がられていましたが、残念なことに日々凋落の一途をたどった業界とのおつきあいですから、収入はけっして十全なものではなかったはずです。

そんな佐藤さんにいくつかの企画でお手伝いをしていただきました。『欧文組版入門』(ジェイムス・クレイグ著)、『エディトリアルデザイン事始』(松本八郎著)などの原稿校閲は佐藤さんによるものです。
そんな佐藤さんにちょっとおおきな企画をおねがいしていました。それは「写真植字機による文字組版の栄枯盛衰物語り」でした。写真植字はちょうど昭和元年にうぶごえをあげました。戦前はほとんど実験的な意味合いしかなかったものの、戦後は金属活字組版にかわって、一世を風靡したことはご存じのとおりです。

すこし余談になりますが、1989年にある写真植字機メーカの PR 誌に執筆を依頼されまして、大意つぎのようなことをかきました。「ちかい将来写植業者の 7 割が転廃業をせまられる。 おなじくグラフィックデザイン業も 6 割が転廃業をせまられる」
このころのわたしはよくアメリカにいっていました。このころアメリカに登場したいわゆる DTP は 一挙に印刷・出版・デザイン業界の構造を破壊して、まさしくある種の革命的変革をもたらしていました。よくもわるくも戦後日本とはアメリカのコピー国家として存在しています。しかも致命的な欠陥として、その理念や哲学にせまるのではなくて、技術にひかれるかたむきが、明治の開国以来顕著にみられるのは残念なことです。

ですからわたしはそのときも「理念なき技術移植」にかならずかたむくという危機感をいだきました。わが国ではあたらしい技術が提示されると、まるで誘蛾灯にひかれる夏の虫のように、いとも簡単にその技術信仰にとらわれるふうがみられます。その結果もたらされた予測が、上述したような業界の構造変革でした。
もちろんこの原稿は起承転結を明確に「なぜならば」もていねいにかいたのですが、入稿直後にそのメーカの広報部がとんできて、
「まことにもうしわけないのですが、あの記事はユーザの夢をくだきます。うちの PR 誌は夢をうるためですので、なんとか訂正していただけませんか」
「ホーッ、PR 誌って夢をうるんですか。真実を伝えるんじゃないんですね」
「そうおっしゃらず……、なにとぞご配慮を」
「いやぁべつにいいですよ。あれはボツということにしていただいて」

むしろ残念なことですが、あれから10年、わたしの予感は写植業者の崩壊というかたちでは的中しました。そして一見グラフィックデザイナーは健在なようにみえます。しかし写植・版下・製版の業務の肩代わりによって、延命をはかっているグラフィックデザイナーに、ほんとうの北風がふきつのるのはこれからのことです。それはいつにかかって、かれらがいつのまにか写植業者と同様に、装置産業に変貌したからです……。

1989年といえば、時代はまだバブリーなころでしたし、なんでもそれいけドンドンで、景気のいいときでした。そんなときに暗いはなしは呪言めいてきこえたようですし、悲観論めいてだれも受けつけなかったのかもしれません。結局その原稿はボツとなり、日の目はみませんでした。

このボツ原稿は結局のところわずかなコピー複写として友人に配布しました。そしてこの趣旨にもっともつよく賛同してくれたのが佐藤さんでした。
このころ佐藤さんは「エディトリアルプランニング・アズ」という編集の会社を設立されるかたわら、写真植字業界の組合機関誌の嘱託編集者として健筆をふるっていました。「同業組合」とはすべからく現在の体制をなんの変化もなく、維持・保守することが「本音の目的」となりますから、その機関誌編集にあたった佐藤さんは、その知性のゆえにお悩みはふかかったようでした。

わたしといえば「冠婚葬祭だいきらい」「組合や団体は集団ヒステリーになるだけ」「ひとのあつまりにでると人間中毒になる」というわがまま人生をいきてきましたので、そうおおくの友人をもっているわけでもありません。そんなわたしをよく理解してくれたのは佐藤さんでした。1988−1990年ころは写真植字業界の凋落はかくしようもなくなって、ふたたび佐藤さんのお悩みが深刻さをました時期かとおもわれました。

その反面、編集者としての風格とおもみをました時期でもありました。業界紙ご出身のつよみで、文字組版業界のよい意味での肝煎りてきな存在にもなりつつありました。とかくこうしたひとは、その地位や立場を利用して、権威めいたり、さらに権力に肉薄して、金権をあさることがままみられるものですが、佐藤さんにあってはおよそそうしたふうはなく、あいもかわらず生活はつつましやかであり、おひとがらは穏やかで、あたたかなかたでした。

どうも田舎医者のいえに生をえたせいでしょうか……。わたしはひとの生き死にあまり拘泥することはこのみません。もちろんおわかくしてなくなられたかたには、哀切のこころはありますが、ほとんど葬儀にはでませんので、そうしたかたが亡くなったという意識に乏しいことがあります。ですからいまでも、
「そうだ、この情報は佐藤さんに電話しといてあげよう」
などと受話器をとりあげたりします。そしてその直後にふかいかなしみを憶えたりするのですが……。

わたしと佐藤さんにとって、その人生の主要な部分をしめた「写真植字による文字組版」は、いわゆる DTP システムの登場によって、 崩壊といえるほどのクラッシュをみました。なぜもこう簡単に急速に崩壊したのでしょう……。

推測するにそれはいつにかかって技術信仰過剰のもたらしたものであり、学習不足であり、目的喪失ないしは誤認のもたらす結果とおもわれます。そもそも写植機をもちいるのが目的化してしまったのは漫画てきですらありました。目的はあくまで印刷用文字組版の提供であるはずであり、その道具が金属活字にかわって、たまたま写真技法による植字システムであっただけでした。つまりあたらしい写真技法による文字組版システムを過大に評価しすぎた結果、手段としての写真植字機と、目的としての文字組版を混同してしまったようでした。ここを押さえておけば、写真植字機にかわって、どんなシステムが登場しようが、目的はかわらないのですから、右往左往する必要はまったくないはずでした。

ですからこうした写真植字の組合は、現在プリプレスだの DTP といったことばに検証 もなく、即座にとびのっています。おそらく当然予測されるあらたなシステムが登場したときには、また名称だけをすばやくとりかえて、なんらの意識変革もないままに時代の風にながされるのでしょう。
どうして文字を組むプロ集団という意識のもとに結束できないのでしょうか。ひとがことばを発し、その蓄積手段としての印刷が健在であるかぎり、文字組版の専門家集団はその存在意義がありえます。パーソナル・コンピュータのユーザは、だれも文字組版の専門家などを指向していません。かれらは便利だから、安価だからつかうだけであって、その一環として文字組版もやっているにすぎません。

かれらはけっして文字組版の専門家やタイポグラファではないのです。つまりそこにはプロフェッションは不在なのであり、わかりやすくいえば生活がそこにかかっているわけではありません。いい意味での日曜画家であり、ホビープリンタなのです。ですからアマチュアとプロ集団のよき関係の構築につとめるべきであって、それと張り合って平板化したり、おそれたり敵対することなどまったくありません。

つい筆がすべりました。なんとなく佐藤さんのことを偲んでいるうちに、よくかたりあかしたテーマがおもいおこされて、ここにまだ佐藤さんがいるような錯覚にとらわれました。
佐藤さんの発病のまえに、こんな漠然としたはなしがありました。

「あのさぁ、今世紀中に光学式の写真植字機はほぼ役割をおえるよね」
「フッフッフッ、おそらく確実に」
「でも半世紀の日本語文字組版を担ったという、歴史的事実はあるよね」
「もちろん。ほこりたかい技術でした。そしてあまりにもはかない職業でした」
「その歴史をだれがニュートラルに、明確にかきのこすとおもう」
「そうですねぇ、業界誌・紙にめぼしいひとはいませんねえ」
「メーカーだってだめだよ。あれは参考にはなるけど都合のいいことばかりで、データの信頼性はないからね」
「まして DTP に浮かれたっているか、怯えているかしかないし」
「そうなんだよ。だから写真植字システムの興亡史を佐藤さんかかない?」
「フッフッフッ、おおきなテーマできましたねぇ」
「ここんとこにわかタイポグラファがふえて、みちみちの学問でさかんに高説をかたるけどさ。ちゃんと業界をしっていて、技術のうらおもてをキチッとかけるとしたら佐藤さんだな」
「フッフッフッ、おもしろいテーマだし、真剣にかんがえておきます」

このあとしばらくして、佐藤さんがよくない病気だと風のたよりでしりました。手術後にフラッと顔をだしたのは、初夏の風がかおりたつようなひるさがりでした。
「やせたでしょう。よくない病気なんですよ。でも漢方のいい薬でなおりつつあるみたいですよ」
声のはりはかわらないものの、わたしはかれのあまりのやつれように、声もないというありさまでした。
「おれは佐藤さんに、写真植字システムの興亡史をたのんでるんだからね。かってに病気になってもらっちゃこまるなぁ」
「まだ手術のあとの痛みがあって、ここまではってきたんですよ」
「そんな弱気をだしちゃだめだよ! やまいはキからっていうじゃない」
結局まとまったはなしもできずに、新宿駅までおくることになりました。わたしはいつのまにか林さんにもいった、たいして気休めにもならないことをいうしかなかったのです。そして老人のように、すこし小腰をかがめながらゆっくりあるくすがたは、もともとがスマートなダンディ紳士だっただけに、こころがいたくなるようなできごとでした。
「このみちをむかし林さんとあるいたこと、おぼえてます?」
「そうそう、本ができた日ね」
「あの日、林さん、スキップしてたでしょう」
「そうだったかなぁ。ともかくよろこんでたよね」
「あの日もあつかった……」
「すこしやすむ、つかれたんじゃない」
「あの日もあつかった……」
「…………」

それからしばらく、まだ夏のあつさがのこるころに、佐藤さんの訃報を風のたよりでしりました。こころのどこかにポッカリとおおきな空洞ができて、そこを一陣のつめたい風がサァーとながれるような、そんなきびしいあつさの日でした。



佐藤章さんを想う 片山 敏胤
奥さんから、佐藤章さんの訃報を受けたのは10月に入って間もなくのことだった。
突然といえば突然であるが・・・無事な報らせが欲しかった。
昨年9月頃、私の妻が大塚の癌研で、ばったり佐藤氏と出逢った事があった。検診に行った妻に、彼は自分が術後である旨を、例の笑顔でさらっと話し、近くまた私のところに立ち寄ると云って別れたそうだ。

丁度その頃、私は“近頃、佐藤さんが見えないな”と、気になり、<たまには、電話をしてみようか>と思っていた矢先だった。
然し、妻の出逢った場所と術後であるとのこと、音信の跡絶えていたことなどから、<まだゆっくり話しをする気分ではない、のかも>と、こちらからの電話を遠慮した。結局彼のその頃を知る最後となってしまった。遠慮して元気付けの電話をしなかったのが悔やまれる。逝くには早すぎた、としか言いようがないが、心から冥福を祈ります。
 
彼とは、30年来お付き合いをしたように思う。新聞の取材で訪ねてみえたときが最初ではなかったかと思う。古い出逢いの事は忘れてしまったが、私も仕事に傾注していた頃であり、その後、方向性に迷うときなど何かと彼の見識を参考にさせてもらった。彼の提供してくれた情報は物・質ともに多大だった。私は仕事の大事な岐路に立つと、よく彼の意見を求めた。後年は彼の仕事のお手伝いもさせて貰い、新しい展開発展を覗かせて貰うこともあった。
彼もまた、仕事を離れ、脚マメに訪れてくれ、互いに仕事や趣味や夢を語り合った。年に数回の会談を重ねるうち、隠すものもない話し相手になり、いつの間にか30年に及ぶ歳月が経っていた。どんなに親しくなっても、彼の温和でソフトで紳士的な姿勢は一度も崩れたことがなかった。

20年以上前だが、視察でアメリカに行った折、二週間ほど、彼と寝起きを共にした。ロスの夜、ホテルのラウンジで、談笑していたら、ミンクに身を包んだ美しく品の良い女性二人が声を掛け同席してきた。彼の片言の通訳で“いわゆるプロ女性”であることがしばらくして解ったが、彼は慌てずスマートに席を外してもらった。彼はそんな時でも、紳士らしくふるまった。二人は今さらに“アメリカだなー”と優雅に立ち去る彼女達を見送った。

彼は学生時代に空手をやっていたそうだ(全く、見かけによらないが・・・)。勢いづいた二人で、観光客のいかない場所を探索しようと、夜の街に出た。光の届かない建物の陰には必ずといっていいほど危ない人気があった。ホテル内とは別世界のそんな場末の安酒場に入り席に座ると、回りはうさん臭い客ばかりで、ろくに話しをしてる様子もない。上目使いに獲物を狙い、どの眼もからみついて離れない、刺すような眼に取り囲まれ、“やばいね”という私に“うん”と彼、素早くコーヒーを飲んでおいて、席を立った。佐藤さんの空手も、私の向こうっ気も通用しそうもないことを二人は察し、ほうほうの態で、夜道を遠くなったホテルに急いだ。若く危なげだった、懐かしい思い出のひとつです。

彼の訃報を知ったとき、にぶく深いショックがあった。
30年来の付き合いは、彼の人柄のせいか、とてもソフトで穏やかな記憶である。二人で馬鹿げた大騒ぎをしたことも無かったし、派手な儀礼にまみえたことも無かった。
思い起こせば、仕事や人生や夢を語り合った少ない友人のひとりであり、私の歴史を知る人でもあった。互いの若き日を隔間見た貴重な証人を無くした事は、私の寂しいショックである。

友人とは、無意識であっても、人生を影響し合った人のことかもしれない。
彼の死は、私に友人と呼べる人がどれだけ居るのか、最後のメッセージを示唆してくれた気がしてならない。佐藤さんを噂すると、私の妻は涙する。なぜか、静かに心に残る人らしい。

何年か前に、佐藤ご夫妻が茨城の家に遊びに来たことがあり、その折、ご夫妻から頂いたペールギュントの模写が、今も海に向かって飾られている。絵は遠くを夢見た昔の思い出とともに、今は、佐藤章氏と重なって物言わず私に語り続けています。

今でも、彼が鞄を下げ、白い歯を見せ笑いながら、ゆっくりとした口調で“こんにちわ”と玄関に立ちそうな気がするのは私だけではないかもしれない。
・・・どうか奥さん、“とき”が“章さん”が、穏やかに、休みなく力づけてくれる筈です。なんでも、いつでも話しに来てください。女房もとても、心配してます。待っています。



章さんへの手紙 ホカゾノ・クリエイティブ 外園 勉
佐藤 章様へ

EDP最終号ありがとうございます。
佐藤さんの文章とても考えさせられるものがあります。
両国の佐藤さんから章さんのガンの事、抗ガン剤の治療をやめ退院し自然治療(?)をされている事など聞いていました。

最近 週刊文春の特集でガン治療、ガン早期手術の弊害などの記事を読みました。
抗ガン剤の治療は逆に身体をむしばむ事など初めてしりました。
神戸新聞の特集では最近ガンに対して共存しようという考えの人がふえているという事が書かれていました。赤塚フジオ、名前は忘れましたが年長のプロゴルファーの方など手術を拒否し、自分のやるべき事に集中して時間を大切にすごして悔いを残したくないとの考えを知り、章さんの気持ちが少しわかったような気がします。

私はそこに本当の宗教心を感じました。既成の宗教に入っていなくても すばらしい人は心の中に無意識にもっているものなのだなとわかりました。
「紙魚のつぶやき」の中で次の章さんのエッセイを楽しみにしております。

1998/8/11 from 外園 勉

このメールは章さんには読まれることなく眠っていたようです。
あらためて章さんへの心をこめて送りたいと思います。章さん お疲れさまでした。



1986年 南池袋晩夏 南 悠一

 江戸のむかし語る人ゐて飯屋の闇にひとしきりの慈雨

 幻のうつつの夏を過ぎゆきて瞳に空を映す君をり

 君の恋われの恋など語るまま鬼子母神裏夏が匂ひて

 味噌汁にやげん堀の七味かけアキラと言ひし蒼きあずまびと

 つらぬきし意志などゐらぬ雑司ヶ谷ここから夢二海は見へるか

 蝉しぐれ潮騒のごと注ぎをり首都をつらぬく森の燃えるごと



またお会いしたいと思っています 山口 岩男

「タイプラボ=佐藤豊さん」の書体、セプテンバーの名前の由来(佐藤章さんの没月)を知り、この紙面に参加させていただきました…。
世にある作品はさまざまな理由で誕生しています。「セプテンバー」という書体にも、その理由の一端が感じられ「作品のこころ」が少し見えるようで感慨深く、私も使用させていただいています。
作成途中でも「章さん」は上で見守っていたのでしょうから、「タイプラボ=佐藤さん」の制作の労苦はご存じでしょうね………。

ご健在の時の「章さん」にお会いしたのは、たぶん1度か2度だと思います。
作家風なイメージがあり、私レベルの言葉では気軽に話せないような気がしていたものです。「章さん」と「もっと話せる」時間があったらと、残念に思います。今なら少しは話題に入れそうな気がするのです。

以前「タイプラボ=佐藤豊さん」とお墓に行った時……「章さん」の墓前で、ノンベエ同士ということでビールをいただきました。そぅ…、章さんも昔のように、寡黙にゆっくりと杯を空け、楽しんでくれた筈です…。

帰り道、途中下車をして、まだ夕方明るいのに、人間味あふれるとでも言いましょうか、章さんの好みそうな理想の飲み屋さん(気取りが全くないということ)を見つけ、章さんの思い出を語りあって時間を過ごしました。
人と人は、いろいろなところでつながっているものだとつくづく感じます。電車での墓参の帰りには、また「章さん」を口実に、あのお店で時間を過ごしたいと思っています。

今年の秋は、バイクでの墓参になりました。いつのまにか私も、章さんの年齢を越えてしまい、歳のせいか記憶がおぼろげで「章さん」の前に行くつくことが出来ませんでした(管理事務所に聞けばいいんだって、後で気がつきましたが…)。
後日すんなり墓前にはたどり着きましたが…、初心を忘れないためにも、またお会いしたいと思っています。
その時は独り言…、いや一方的ではありますが、お話ししましょう。

 


先着順に掲載しています、彼と交流のあった方々の投稿をお待ちしております

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