寄稿:欣喜堂★活字書体設計 今田欣一
書体の基礎知識 漢字書体編

宋朝体元朝体明朝体清朝体隷書体ゴシック体(黒体)行書体篆書体丸ゴシック体(円体)草書体ラテン体(拉丁体)アンチック体(古体)御家流―江戸文字図案文字・POP文字装飾文字
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宋朝体

 宋朝体は、中国の宋代(960―1279)の木版印刷にあらわれた書体である。唐代に勃興した印刷事業が宋代に最高潮に達し、また唐代の能書家の書風は宋代の印刷書体として実を結んだ。初唐の欧陽詢(557―641)書風による浙江地方、中唐の顔真卿(709―785)書風による四川地方、晩唐の柳公権(778―865)書風による福建地方が宋代における印刷事業の三大産地である。
 近代宋朝体活字は浙江地方の印刷所体の系統で、陳起の陳宅書籍鋪による「臨安書棚本」を源流としている。上海・中華書局の聚珍倣宋版を名古屋・津田三省堂らが導入した「宋朝体」と、上海・華豊制模鋳字所の真宋を大阪・森川龍文堂が導入した「龍宋体」とがある。津田三省堂の宋朝体には縦横同じ幅の方宋体と縦に細長い長宋体があった。長宋体の方が目新しい感じがあって、一般には喜ばれていたようである。
 写植では、津田三省堂の長宋体を継承した石井宋朝体(写研)と、森川龍文堂の龍宋体を継承した龍宋体(モリサワ)がある。

 昭和34年に、名古屋の津田三省堂の津田太郎から宋朝体の復刻のための文字の制作依頼がもちこまれた。石井は、これを条件付きで引き受けた。見本帳の書体の単なる復元でなく、石井独自の構想になる新宋朝体の制作なら引き受けるというのであった。
 石井は、それまで、宋朝体として出された書体に、不満を持っていた。それは中国から持ち込まれた原字がそのまま、復刻され、しかもその復刻の過程で徐々に字体がくずれ、文字として新鮮味のない、ただ横線の右上がりのくせだけが目立ち、美しさの欠けたものだったからである。
 石井はこうした宋朝の姿を一新し、日本の風土にマッチした、高い品位と暖かみと、それに現代的な美しさをもったものにしたかった。そして、本文用にも、ディスプレイ用にも使える、可読性のすぐれた、新しい宋朝を作りたいと考えていた。このため、石井はまったく既存の宋朝にこだわらず、石井独自の宋朝をつくることにした。
『文字に生きる』(株式会社写研 1975年)にはこのようにしるされている。社史特有の美化がみられるが、実質的には復刻だったのである。そしてもともとが金属活字の原図として制作していたためだろうか、針金のように細い書体となっている。
 デジタル・タイプでは、台湾・文鼎科技との共同開発によるリョービ・花胡蝶、台湾・華康科技の開発によるダイナコムウェア・新宋体がある。ほかには金属活字の方宋体を継承したイワタ・宋朝体がある。
 中国や台湾では、本文に宋朝体を使うことが多いそうだ。明朝体はわが国からの逆輸入によって使われだしたにすぎない。
 明朝体は10ポイント以下で使ったときに安定感をみせるが、10ポイント以上の本文で使ったときには気品に欠けてしまう。わが国においても、大きめの本文では宋朝体のほうが魅力的なのだ。
 わが国における宋朝体は石井宋朝体のイメージが強いためか、長体で細い書体ということになってしまったのは残念である。デジタル・タイプにおいてもそのイメージを引きずったものもあるが、本来は彫刻風の力強い書体なのである。
 よくタイポグラフィに関する記事で「本文は明朝体を使うべし」と書かれたものがある。宋朝体の本文は見慣れないので違和感を感じるかもしれないが、必ずや明朝体と肩を並べるようになるであろう。

●リョービ・花胡蝶 
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●ダイナコムウェア・新宋体
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●欣喜堂 宋朝体(浙江系統)試作書体「西湖」
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●欣喜堂 宋朝体(四川系統)「龍爪」
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元朝体

「明朝体や宋朝体は知っているけど、なぜ元朝体はないの?」
 このような疑問があるかもしれない。楷書体系統の漢字書体は、中国のそれぞれの王朝の時代をあらわす名称で呼ばれてきた。このうち元朝体は、わが国の活字はもちろんのこと、中国の活字にも存在しない。
 清朝体も、わが国固有の書体に冠せられ「せいちょうたい」などと呼ばれていたこととは別に、清王朝の武英殿や揚州詩局の刊本字様(木版印刷の書体)を源とする書体を「清朝体」とすれば納得がいく。
 元朝体も刊本字様として存在するのである。中国・元代(1271―1368)は漢民族圧迫政策により書物の出版にはきびしい制限が加えられたが、それでも福建地方の民間出版社では多くの書物を刊行している。その刊本字様は趙子昂(1254―1322)の書風によるとされる脈絡を少し残した書体で、これを中国では元体とよんでいる。わが国の言い方では元朝体である。
 ところが書誌学などでは「趙子昂体」「松雪体」と呼ばれることが多いそうだ。筆者は、元王朝が蒙古族による征服王朝であったために漢民族としては「元」という呼称をもちいたくなかったのではないかと想像している。だからこそ金属活字としても継承されなかったし、わが国にも輸入されることはなかったのである。
 清朝体という呼称もまた中国でもちいられていないのは、清王朝も満真族による征服王朝であることからだろう。あくまで筆者の想像であるが、わが国においても日清戦争の影響によって、清朝体を「しんちょうたい」から「せいちょうたい」と言い換えたのではないかともおもえるのである。
 さて、元朝体は福建地方の民間出版社からつくりだされた書体である。宋代の福建地方の出版社では余仁仲の万巻堂が知られているが、元代になると余志安の勤有書堂が有名になった。この勤有書堂の刊本字様こそが典型的な元朝体である。
 この書体は楷書体系統ではあるが、行書体の筆法も合わせ持つものである。あるいは御家流を読みやすくしたようなイメージもあり、和字書体とも調和する。むしろ日本人好みの書体なのではないだろうか。

●欣喜堂 試作元朝体「志安」
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明朝体

 明朝体は、中国の明代(1368―1644)の木版印刷にあらわれた書体である。はじめは宋朝体の覆刻(かぶせ彫り)だったが、しだいに印刷書体としての読みやすさが高められた。そして明朝後期にはさらに様式化されて今日のような明朝体になった。
 宋朝体から明朝体への移り変わりは、欧字書体におけるベネチアン・ローマンからモダン・ローマンへ至る移り変わりに似ている。東洋も西洋も、発達の経緯は同じなのかもしれない。
 近代明朝体活字は19世紀前半に上海や香港にあったロンドン伝道会と北米長老会によって製作された。ロンドン伝道会の印刷所である上海・墨海書館と香港・英華書院で使用された活字は、ヨーロッパで活字母型が製造されたものである。さらには北米長老会の印刷所であった上海・美華書館において木製種字と電鋳母型という活字製造法が考案された。この種字の彫刻はもちろん中国人が行っている。
 これらの明朝体活字が長崎の崎陽新塾活字製造所にもたらされたのである。この活字をコピーして活字母型を製造したのがわが国の明朝体活字のはじまりで、これは東京築地活版製造所や正院印刷局(現在の国立印刷局)などに引き継がれた。のちに東京築地活版製造所では理想的な本文用明朝体を求めて、上海の中国人種字彫刻師に依頼している。すなわち東京築地活版製造所の明朝体活字は中国で制作された種字によって築かれたものだ。
 わが国の明朝体活字はほとんどが東京築地活版製造所のものを源としているといってよいだろう。写真植字の石井明朝体(写研)においても東京築地活版製造所の活字清刷をベースに設計したものなのである。制作者の石井茂吉(1887―1963)は雑誌『プリント』(1962年3月号)で次のように語っている。

 築地活版の12ポイントの活字を4倍に引き伸して、48ポイントにして、それに墨入れをするという方針で出発した。勿論、4倍に拡大すると文字はボロボロ、ハネの先は丸くなっている。それを縮小する場合はいいのですが拡大する場合にも、きれいな文字でなければならないという所から、青写真で拡大したものに墨入れをして、きれいな文字を作る事に決めました。(以下省略)
 現在のデジタル・タイプの明朝体も東京築地活版製造所を起点とする金属活字の系譜を引き継いだものが少なくない。モリサワ・リュウミンは森川龍文堂4号活字を、リョービ・本明朝は晃文堂5号活字をベースにしている。写研・本蘭明朝もまた岩田母型の明朝体活字を参照したものなのである。
 明朝体の美しさは、楷書の筆法の単純化にあると思う。起筆や終筆など楷書からのいわば歴史的遺産を受け継ぎながら肉筆性を排除し、水平垂直を基本とする抽象性を帯びた幾何学的な線に融合することに成功している。さらに、横画を細くしたことで自己主張しないスタイルになった。それが自然で、当たり前のように思えてしまう。
 横画の細い線と縦画の太い線、ウロコの三角形と点の円形…。対照的な要素が実に見事に融合された、絶妙なバランス感覚が感じられる。違った要素のものは何とか統一しようと考えるのが一般的だが、そうしないで調和を図ってしまったことに驚かされる。
 明朝体は、他の書体よりも整然としていて読みやすいとよく言われている。本文用書体としての完成度が高いとされている。明朝体は金属活字の時代から現在のデジタル・タイプに至るまで、活字書体の中心であるということは認めざるをえない。

●欣喜堂 明朝体「金陵」
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●いろいろな会社のさまざまな明朝体(和文フォント大図鑑より)
http://www.akibatec.net/wabunfont/category/min.html



清朝体

 中国・清代(1616―1912)の木版印刷にあらわれる書写系書写風の印刷書体を「清朝体」という。康煕年間(1662―1722)には紫禁城(現在の故宮)の西華門内の武英殿に編纂所が設けられた。武英殿の刊本にあらわれた書写系書写風の字様は、揚州詩局において完成された。
 揚州詩局『全唐詩』系統と認められるものには、名古屋・津田三省堂で輸入した正楷書体がある。正楷書体はもともとは上海の漢文正楷書局で制作された書体で、鄭午昌の筆耕によるものとされている。写真植字文字盤における紅蘭楷書(写研)も、上海から購入した清朝体で『全唐詩』系統である。
 正楷書体は、漢文正楷書局という社名からとられたものである。本稿では正楷書体という呼称をさけ、その起源を明確にするということで「清朝体」という分類名をもちいることにする。
 正楷書体以外では、揚州詩局『全唐文』の系統にちかい書体として教科書体がある。国定教科書時代に井上千圃(高太郎 1872?―1940)が版下を書いたもので、石井教科書体(写研)もこの教科書体がベースになっている。
 フォントワークス・グレコについて、『組見本帳』(フォントワークスジャパン)に以下のような記載がある。

 サイノタイプ楷の歴史は1930年代の上海に遡ります。当時、上海世界書局に勤めていた二人の人物が描いていた夢、広範囲な印刷に適した質の高い楷書体を創り上げるという構想がサイノタイプ楷誕生の発端となりました。一人は唐朝の欧陽詢流および柳公権流の書道家である陳履担氏。もう一人は、金属活版の熟練製作者である周煥斌氏です。
 周煥斌は1943年に華文銅模鋳字廠を設立し、この活字書体の製造をおこなった。これが金属活字、写真植字機文字盤、さらにはデジタルタイプとして中国全土に普及し、わが国においてもフォントワークスによって「グレコ」として発売されている。
 活字書体としての清朝体は、書写の楷書とは少し違うものである。清朝体は活字版の適性を加味して造形されたものだ。どのような文字との組み合わせでも、美的感覚を満足できることが必要である。
 書写と彫刻の技術の融合こそが優れた清朝体を生みだすと思う。何よりも紙面から醸し出される雰囲気を重視した上で、筆法や結構法をよく理解し、均衡と統一をいかに叩き込んでいくかがキー・ポイントである。
 リョービ・花蓮華は台湾・文鼎科技との共同開発によるものである。ほかには台湾・華康科技の開発によるダイナコムウェア・楷書体、イワタ・正楷書体、モトヤ・正楷書体などがある。
 なお弘道軒清朝体は、東京・弘道軒の神崎正誼(1837―1891)が新刻したもので、小室樵山(正春 1842―1893)が版下を書いたといわれている。また東京築地活版製造所の楷書体と弘道軒の清朝体はほぼ同じ書体と思われるが、いずれも品位に欠けたものである。

●リョービ「花蓮華」
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●フォントワークス「グレコ」
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●欣喜堂 清朝体(武英殿刊本系統)試作書体「熱河」
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隷書体

 中国・漢代(前202―220)には篆書が衰え、実用に便利な隷書が勢力をえた。隷書は秦代には補助的につかわれていたが、漢の公式書体となった。西漢(前202―8)では古隷と八分がともにつかわれたが、東漢(25―220)では八分が発達して全盛期をむかえた。
 173年(熹平4)に東漢の霊帝が今まで伝えられた経書の標準のテキストを定めたのが「熹平石経」である。「熹平石経」は儒学で主要な『易経・詩経・書経・儀礼・春秋・論語・公羊伝』を46枚の石碑にしるしたもので、1枚の大きさは高さ約230cm、幅約92cmである。
 これを洛陽の最高学府「太学」の門外に建立し、正確な儒学経典の内容を広めた。蔡ヨウ伝には、「碑が始めて立つに及んで、これを観視および模写するもの、車乗、日に千余輌、街陌を填塞した」と書かれている。同じ蔡ヨウ伝には「すなわち、自ら冊に書し、碑に丹し、工をして鐫刻せしめた」とあり、このことから古来、熹平石経の文字は蔡ヨウ(132―192)の書と見なされている。蔡ヨウは、東漢の最高の学者だった。
 石経は幾多の喪乱にあって完全に破壊されて四散してしまった。その中の「儀礼」の1石が、京都・藤井斉成会有鄰館所蔵の残石である。東京・台東区立書道博物館、中国・西安碑林博物館、台湾・歴史博物館などにも残石や拓本が展示されている。
 石経は八分で書かれているが、八分とは隷書の1種で「八の字」のように左右にのびる特徴をもっている。この装飾な隷書を八分または漢隷といい、それ以前のものを古隷といって区別している。
「熹平石経」は点画の太細の変化も波法の強調はなく書法芸術としては表情に乏しい書とされるかもしれないが、正確で読みやすい書風は活字書体のルーツのひとつであると思われる。

『富多無可思』(1909年5月 青山進行堂活版製造所)には二・三・五号隷書活字、南海堂二号・五号隷書活字、二号東京隷書活字の3ファミリーが掲載されている。いずれもきわめて装飾性の強いもので、見出し用として製作されたものだと思われる。
 漢隷の書法を受け継ぐものとしては、むしろ初号―六号ゴチック形のほうがちかいと感じられる。これらの書体は波磔のなごりが顕著にみられ隷書の影響があったことがうかがえるが、装飾性をおさえて判別性がたかめられている。
 写真植字では写研「曽蘭隷書」がある。これは台湾の曽慶仁氏が漢字をデザインした書体である。従来の隷書体が共通して持っていたおどろおどろしさを全く感じさせない、上品で温厚な感じの隷書である。
 隷書の名品といわれているものは、だいたい横長の字形である。これは横画を水平にして長くしているからである。人間の手の生理的な仕組みから、縦画より横画の方が書きやすいので横画を強調するのが効果的だったということが考えられる。
 小・中学校の国語科書写では隷書は出てこない。書道でも初級は楷書と行書までである。隷書・篆書は中級以上でやっと登場するのだ。最近では実用書道というのがはやっているようだが、楷書と行書だけで隷書はない。活字書体としても日常ほとんど使われることはなかった。あまりにも古くさいイメージとしてとらえられ、もう過去のものになったのだろうか。
 しかしながら隷書風の書写体を見かけることは多い。謄写印刷における沿溝体や製図の文字などは横画が水平になっているので、これらは隷書に近いのではないだろうか。また現在の若者たちによって生み出された素朴な文字もまた、現代に生きる隷書ともいえるのではないだろうか。難しそうという印象があるが書いてみると楷書よりずっと簡単なのである。隷書がまた別の発展をみせてもいいのではと思う。

●リョービ「花牡丹DB」
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●ダイナコムウェア「隷書体」
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●欣喜堂 試作隷書体「洛陽」
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●いろいろな会社のさまざまな隷書体(和文フォント大図鑑より)
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ゴシック体(黒体)

 中国では「黒体」というが、わが国では一般にゴシック体といっている。わが国におけるゴシック(gothic)という名称は『活版様式』(1877 活版製造所 平野富二)に欧字書体としてあらわれているのが最初である。すなわちゴシック体とはアメリカのゴシック体にならったもので、フランスではサンセリフ、ドイツではグロテスクといわれている。漢字書体としては「黒体」といったほうが適切だと思われるが、本稿では慣例にしたがってゴシック体という名称をもちいることにする。
 漢字書体として「ゴシック体」という名称で活字見本帳にはじめて登場したのは、『活版見本帳』(1903 秀英舎鋳造部製文堂)および『活版見本』(1903 東京築地活版所)である。ただしゴシック体の用例としては、『五号明朝活字総数見本 全』(1898 東京築地活版製造所)のなかで「ゴチック形」として掲載されたものがある。
 真書体系統が宋朝体からはじまって元朝体・明朝体・清朝体へと発展したように、ゴシック体は隷書体を元にデザインされたようである。欧字のサンセリフを模して作られたにはちがいないが、筆法のルーツとしてはむしろ「隷書」にあると考えられる。
 隷書は、逆の方向から入れて書く蔵鋒となっている。筆を十分開いた方筆で、ゆっくり強く書かれているのだ。真書(楷書)の筆法とは全く異なるものである。ゴシック体も同様で、転折部は直角に折り返すというのも納得できる。鋒を右上に払う波磔は強調していないが、鋭く尖らせることはなく筆勢をたくわえている。

 ゴシック体は、各種の表題、見出し、あるいは写真、図版などの説明文、語句の強調など、明朝体の補助として用いられてきた。明朝体と並べると強く目に飛び込んでくるので、注意をひくようなところにゴシック体が使われてきたのである。したがって金属活字では一二ポイントあたりでもかなり太くできている。現在のファミリーでいうとエキストラ・ボールド(特太)で、戦前では文章組ではほとんど見かけない。
 現在では欧字書体のゴシック体と同様にファミリー化されて、ライト(細)ができたので、ある程度のながさなら本文で使うこともある。ただ、書籍で使うことはほとんどなく、せいぜい雑誌や、カタログ、マニュアルの、少ないページでの使用にとどまっている。
 ゴシック体の美しさは幾何学的で力強い構造にあると思う。あらゆる要素が視覚的に統一されていて、フラットな紙面になるように太さがうまく調整されているのである。この特徴をさらに強調してデザインしたのが「ゴナ」ファミリー(写研)である。この傾向は「リョービ・ナウG」(リョービ)・「モリサワ新ゴシック」(モリサワ)・「ロダン」(フォントワークス)、さらには「アクシス」(タイププロジェクト)などの各ファミリーに継承されている。

●いろいろな会社のさまざまなゴシック体(和文フォント大図鑑より)
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行書体

 中国・南北朝時代には隷書が影をうしない、草書・真書・行書が発達してきた。北魏以降の北朝には石碑がおおく楷書が発達しているのに対し、東晋以降の南朝では法帖がおおく行書・草書にすぐれていたので「北碑南帖」といわれている。なお建康(南京)を都にした三国時代の呉と、南朝の東晋・宋・斉・梁・陳をあわせて六朝ともいう。
 行書で知られているのが、東晋の王羲之(307―365)が詩集「蘭亭集」に書いた序文「蘭亭叙」である。原本は唐の太宗の陵墓に殉葬されたとされるが、種々の模本が伝わっており、行書の第一の手本とされている。

 わが国の金属活字では、青山進行堂活版製造所の活字見本帳『富多無可思』(1909)に初号・一号・二号・三号・五号行書活字の各シリーズ、南海堂二号―南海堂五号行書活字の各シリーズが掲載されている。ほかに非売品として三号高山行書活字が掲載されている。
 行書活字は久永其頴の版下によるもので、東京・江川活版製造所から継承したものである。南海堂行書活字は湯川梧窓(号南海堂)の版下によるもので、大阪・岡島活版所から継承したものである。
 中国において、行書体は刊本字様としてあらわれたことは多くない。『富多無可思』に掲載された2ファミリーは個性を重んじた清代の書法にちかく、同時代のわが国の能書家も影響を受けたと考えられる。
 もちろん基本は書写にある。自己流の崩し方では誰も読むことができないわけで、筆順のルールに基づかなければならないのは当然のことである。正しい筆順でないと、結構も不自然なものになってくる。
 したがって、写真植字やデジタル・タイプでも、印章や表札、賞状などの筆耕を専門とする人が、毛筆やペン字で版下を書くことが多い。その版下をもとに、活字書体設計者によって活字書体として適応させていくのである。
 活字書体としての行書体は、書写の場合とは役割が異なっているのである。活字書体では、本文用としてのタイプサイズに対応し、文字のあらゆる組み合わせにたいしても可読性と判別性が考えられなければならない。
 欧字書体でいえば、楷書体はローマン体に相当し、行書体はイタリック体に相当するだろう。日本語書体では楷書体系統の書体が主流であることは当然だが、行書体も役割をはたすべきところはあるべきである。けっして挨拶状や年賀状だけの書体ではない。
 明治時代の木版教科書では、一般的な文章は楷書体で書かれていたが、手紙文などは行書体になっていた。こういう使い分けが必要ではないかと思われる。

●いろいろな会社のさまざまな行書体(和文フォント大図鑑より)
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篆書体

 中国・秦代(前221―前207)には、始皇帝(前259―前210)が字体の統一を重要な政策として取り上げ、古文(甲骨文・金石文・籀文)を基礎として篆書を制定し、これを公式書体とした。籀文を大篆というのにたいして、始皇帝の制定したものを小篆ということもある。

 金属活字における篆書体活字としては、前述の青山進行堂『富多無可思』(1909)に二号年賀用活字として「南海堂篆書」が掲載されている。この「南海堂篆書」は、年賀用活字として販売されていた。だから、字種もそう多くはなかったのであろう。当然、通常の文章組としては使用されることはなかったと想像する。
 篆書体は、そのイメージこそ違うものの、用途などからみて欧字書体のブラックレター体に相当するものではないかと考えている。
 篆書は現在では石碑の題字(篆額)や印章(篆刻)などにもちいられている。篆書を読める人は少ないので現在では篆書体はあまり見かけないが、印章業界の丸岡白舟印舗の「白舟篆書」、伊藤印材店の「富篆書」の漢字書体は完成度が高い。いずれも文章組では無理だが、印章用だけでなく、装飾用として使ってもおもしろいと思う。
 印章といえば古印体、印相体というのがある。古印体も金属活字にあり、『富多無可思』には古典、南海堂古典という書体が掲載されている。それにしても、この時代の金属活字の漢字書体のバラエティーの豊かさには目を見張るものがある。
 井上淡斎氏の「淡古印」(写研)は、印章用としてよりマンガのおどろおどろしい場面で使用されているのが目立っている。古印体、印相体も印章業界が得意とするところで、丸岡白舟印舗の「白舟古印体」「白舟印相体」、伊藤印材店の「富古印」がある。
 青山進行堂では、1916年(大正5)に「篆書ゴシック体」を制作して注目をあつめた。篆書体、篆書ゴシック体と、現在の丸ゴシック体(円体)とを並べてみると、その関連が感じられる。すなわち篆書は丸ゴシック体(円体)漢字にも影響をあたえたと考えられるのである。

●白舟篆書体
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●いろいろな会社のさまざまな篆書体(和文フォント大図鑑より)
http://www.akibatec.net/wabunfont/category/tensho.html

●白舟古印体
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●いろいろな会社のさまざまな古印体(和文フォント大図鑑より)
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丸ゴシック体(円体)

 中国でいう円体は、わが国では丸ゴシック体もしくはラウンド体といわれている。青山進行堂『富多無可思』(1909)には電話用活字として四号ラウンドゴチック形が掲載されている。秀英舎の『活版見本帖』(1914)には初號丸形ゴヂックを見ることができる。本稿では慣例にしたがって丸ゴシック体とするが、漢字書体としては「円体」といったほうが適切だと思われる。
 丸ゴシック体はゴシック体と同じで、縦画、横画ともに、直線、曲線ともに同じ太さの線で構成されているが、起筆と収筆は丸みを持っている。しかし先端が丸いだけならゴシック体のバリエーションであり、わざわざ別の分類にすることはないのである。単にゴシック体の角を丸くしたものではなく、転折部に丸みを持っていることが最大の特徴である。
 ゴシック体では直角に折り返す転折も、丸ゴシック体では角張らせないで丸みを持たせているのである。「口」の四隅すべてに丸みを持たせているのだ。どこから、どのように書いていくのだろうか。ゴシック体とは筆順が大きく異なるのだと思う。シンメトリーを取り入れた構造のため、中心を重視して、中心から左側へ、右側へと書いていくのではないだろうか。
 これは、まさに篆書の筆順だと思う。篆書(この場合小篆を指す)の筆法は、隷書と同様に筆の鋒先を逆に入れ画の中央を走る。隷書と違うのは転折の筆法で、円形を描くようにするのだ。丸ゴシック体でも、ゴシック体で直角に折り返す転折も、角張らせないで丸みを持たせている。
 特徴的なのは左肩の転折である。ウカンムリの場合、篆書では第一画と第二画を連続させて書く。右肩は、筆の方向を転換させて回すように書くのだ。口の左下も連続させて丸みを持たせている。中心を重視して、中心から左側へ、右側へと書いていくのである。
 丸ゴシック体はシンメトリーを取り入れた構造で、ストロークとしては最も素朴だ。丸ゴシック体は篆書から発展してきた書体のようである。前述の活字見本帳の見本においても篆書の名残がある。

「石井丸ゴシック体」ファミリー(写研)は、三書体が制作されている。1956年(昭和31)、おもにネームプレート用として作られていた石井中丸ゴシック体が、ニュースなどテレビのテロップに使われるようになった。さらに1958年(昭和33)には、石井細丸ゴシック体と石井太丸ゴシック体が作られている。
「ナール」ファミリー(写研)は抱懐の広い丸ゴシック体である。中村征宏著『文字をつくる』(1977 美術出版社)によれば、「テレビのニュース・タイトルは当時は全部手書きで丸ゴシック体に統一されていました。ナールの原点はここにあるように思います」(要旨)と書かれている。
 また同書において「私は当初、ボディ・タイプ(本文用)としてつくったのですが、実際にはディスプレー・タイプ(見出し用)に多く用いられています」というように、丸ゴシック体は篆書と同じように本文用には不向きであると思えるのである。
 丸ゴシック体は、先端が丸く、円弧で構成された様式である。丸ゴシック体の美しさは、シンメトリー(左右対称)にある。中心線を引いて左右を折り重ねると、ほぼ重なる形だ。
「ナール」ファミリー(写研)の同じ傾向を指向したと考えられるのが、「リョービ・シリウス」(リョービ)・「モリサワ新丸ゴシック」(モリサワ)・「スーラ」(フォントワークス)などの各ファミリーである。

●いろいろな会社のさまざまな丸ゴシック体(和文フォント大図鑑より)
http://www.akibatec.net/wabunfont/category/marugo.html

●いろいろな会社のさまざまな篆書体(和文フォント大図鑑より)
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草書体

 中国・唐代(618―907)において草書・真書・行書の書法はますます発展し、まさに黄金時代をむかえた。とくに真書は多くの能書家を輩出し頂点に達したといわれるが、草書もまた発展しており、独草体から連綿体、狂草体を生んでいる。
 孫過庭(648ころ―703ころ)は王羲之の書法を学んで草書にすぐれ、また論書家として『書譜』をあらわした。活字書体としては、独草体の孫過庭書『草書千字文』が参考になると思われる。
 金属活字にも草書体活字もあった。青山進行堂活版製造所の『富多無可思』には二号・三号・五号草書活字の三シリーズ、南海堂二号・五号草書活字の二シリーズが掲載されている。草書活字は大阪・都村活版製造所が製作したものを継承し、南海堂草書活字は大阪・岡島活版所から継承したものである。
 森川龍文堂の「邦文活字の書体及び規格一覧表」によれば一号・二号・三号・五号・六号の五シリーズがみとめられるが、一号は20字、二号は300字だけのフォントであった。金属活字の時代には、まだ読める人が多かったのだろうが、通常の文章組としては使用されることはなかったと想像する。
 写真植字機用文字盤としては、茅原照夫(如雲)氏による「茅行草」が株式会社写研から1985年(昭和60)に発売されている。行書に近い草書だが、それでも現代人には読めないかもしれない。
 デジタル・タイプとしての草書体は多くない。現在の一般の人では草書が読める人は少ないだろうから、文章組としてはさほど需要がないのであろう。
 それでも表札・看板などの筆耕業界ではよく使われている。したがって草書体は筆耕業界が得意とするところである。株式会社市村の「筆耕字林」にふくまれている草書体は、Adobe Illustrator 形式のデータであるが、検索ソフトの TYPE SEACH がバンドルされている。

●株式会社市村
http://www.netlynx.co.jp/ichimura/hikkou/hikkou.html

●いくつかの草書体(和文フォント大図鑑より)
http://www.akibatec.net/wabunfont/category/sosho.html



ラテン体(拉丁体)

『参號明朝活字総数見本 全』(1928 東京築地活版製造所)には、欧米の活字書体の影響を受けたと思われる「羅篆形」としるされた書体が掲載されている。羅篆形という名称はラテン(latin)からきたものだと考えられる(ラテンの漢字表記は「拉丁」が一般的である)。おそらく年賀用活字の一種で「不變相の御愛顧を願ふ」のような文案で使用される文字のみ制作されているのだろう。
 ラテン(latin)とは、ラテン語系の言語を話す諸民族の通称で、おもにヨーロッパ南部のフランス人、イタリア人、スペイン人、ポルトガル人などがこれに属する。また古代ローマ人がラテン語を表記するのに用いた表音文字をラテン文字(ローマ字)といい。その後もヨーロッパを中心に多くの国語を表記するのに用いられている。
 羅篆形として直接的に継承されているのではないが、同じ傾向としてウッディ(リョービ)やフォーク(モリサワ)、キアロ(フォントワークス)などが挙げられる。レタリングの世界に大正時代の活字の伝統を感じ、知らず知らずのうちに受け継がれているのである。
 ウッディを設計した水井正氏は、『タイプデザインコンセプトの展開2』(1994)でつぎのように述べている。

1970年頃の僕は、あるデザイン会社に勤めており、その多くの仕事は、出版社の雑誌や電車の中吊り広告のレイアウト、それにレタリングといった内容のものである。大体雑誌の仕事というのは、いつも入稿締切りの時間に追われていて、タイトル一本書くにしても、信じられないような短い時間しかない。また記事内容のイメージに当てはまる感じのスタイルに文字を書き分けていた。その一つに平筆を使ったのがあった。
 水井氏はウッディを今までにない新しい和文書体として認識しており、羅篆形の影響などは全くないだろう。どちらかというとオプティマの影響が大きいということである。
 オプティマはフィレンツェのサンタローテェ聖堂の碑文を基本にしてつくられている。15世紀イタリア・ルネッサンス最盛期の文字であり、セリフをもたないローマン体の特徴は、おおくの歴史的な文字にもみることができるのである。
 いずれにしろ、大正時代の活字の名称であったラテン体(拉丁体)は、ウッディ(リョービ)やフォーク(モリサワ)、キアロ(フォントワークス)などに共通するカテゴリーの名称として適切なのではないかとおもえる。それは宋朝体、元朝体、明朝体、清朝体とつらなる楷書体系統の漢字書体が、欧字書体と出会って新しい展開をみせたともいえるのではないだろうか。
 このほか装飾的な書体だが、同じ東京築地活版製造所の見本帳には「ファンテール形」という書体が掲載されている。ファンテール(Fantail くじゃくばとの意)はアメリカの装飾体から取り入れたもので、石井ファンテール(写研)という書体に継承されている。

●欣喜堂 試作ラテン体「羅馬」
http://www.type-labo.jp/GIF.IMAGE/Kinkiroma.gif

●ウッディ(和文フォント大図鑑より)
http://www.akibatec.net/wabunfont/library/ryobi/ryobi2.html#wody

●フォーク(和文フォント大図鑑より)
http://www.akibatec.net/wabunfont/library/morisawa/morisawa2.html#fork

●キアロ(和文フォント大図鑑より)
http://www.akibatec.net/wabunfont/library/fontworks/catch.html



アンチック体(古体)

 欧字書体としてのアンチック(antique)は、すでに『活版様式』(1877 活版製造所 平野富二)にあらわれている。スラブ・セリフと呼ばれるカテゴリーに属する書体である。ここにはゴシック(gothic)という書体も掲載されている。
 和字・漢字書体のアンチック体は、ゴシック体と同様に欧字書体をヒントにして制作されたのではないかと推測される。漢字書体としては、『座右の友』(1895 東京築地活版製造所)および『富多無可思』(1909 青山進行堂)に掲載された「五號アンチック形」がある。アンチック体とは和字書体のみとされていたが、じつは漢字書体も制作されていたのである。
『富多無可思』に掲載されたのは次の字種である。

〇一二三四五六七八九十拾廿百千万電話第番號平旧月日基督教書神章耶聖蘇霊類閏 子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥
 ウエイトは〇―閏がヘビー、子―亥がボールドに相当する。おそらく制作された字種はすくなく、電話・電報にもちいられたようである。また基督教や耶蘇という文字から、キリシタン関係の出版物につかうために制作されたのかもしれない。
 ここにあらわれた「五號アンチック形」は千社札の文字に似たもので、和字も千社札の文字を継承したものかもしれない。寺社に貼られる千社札の文字は肉太で切れ味のよい書体で、文字の輪郭をとりその中を塗りこむ籠字(かごじ)の方法で書かれる。千社札は江戸時代からあるが、今日のような千社札文字は明治末期の太田櫛朝、初代・二代の高橋藤によって完成された。また半纏(はんてん)などにも同じ書体がもちいられている。
 千社札の文字に似た「五號アンチック形」は、同じころに定着していったゴシック体と対応させると、より現代的に解釈されて、俗に横太明朝体といわれるものと同一の筆法をとるようになったとも考えられる。
 アンチック体和字は、しばしば「太仮名」と称する書体と混同されるが、アンチック体と太仮名とはまったく異なる書体である。たとえば「の」の頂点がほぼ同じ太さになっているのがアンチック体で、細くなっているのが太仮名ということができる。本来のアンチック体は千社札文字の系統で、太さが均一なストロークであるが、脈絡線は細くなっている。
 ナウM(リョービ)、TB横太明朝(タイプバンク)は、いずれも明朝体のカテゴリーという認識で設計されたものであるが、伝統的な明朝体の様式からは大きく踏み出しており、むしろ新しいカテゴリーとしたほうがよいと考える。それは「アンチック体」というカテゴリーである。もちろんアンチック体を意識して設計されたものではないが、様式としては同一であるとみなされるからである。

●欣喜堂 試作アンチック体「倫敦」
http://www.type-labo.jp/GIF.IMAGE/Kinkilondon.gif

●ナウM(和文フォント大図鑑より)
http://www.akibatec.net/wabunfont/library/ryobi/ryobi1.html#nowm

●TB横太明朝(和文フォント大図鑑より)
http://www.akibatec.net/wabunfont/library/typebank/kanji.html#yokomin



御家流―江戸文字

 御家流は和様書法の流派のひとつである。尊円親王(1298-1356)は、書を世尊寺流の藤原伊房(これふさ)や行尹(ゆきただ)に学び、穏やかさと力強さをあわせ持った書風「青蓮院流」を創始した。尊円親王の書とされるものに古今集写本「能勢切」がある。
 この「青蓮院流」は、調和のとれた実用の書として「御家流」と呼ばれ、広く一般に定着してゆく。御家流の名は、伏見天皇より「伝えて家の流れとせよ」とのお言葉をたまわったのが由来といわれている。徳川幕府は早くから御家流を公用文字とし、高札や制札、公文書の書法として統一をはかった。さらに寺子屋の手本としても多く採用されたことで大衆化し、あっという間に全国に浸透していった。
 和様・御家流は、ひろい意味では行書体といっても間違いではないだろうが、漢字書体の五体のひとつである行書体とはあきらかに異なっている。青蓮院流は江戸時代になって御家流と呼ばれるようになったが、その書風は異なっているように思えるのである。
 御家流と行書体を比較してみると、そのちがいは歴然としてくる。筆者所有の御家流臨泉堂(生没年不詳)の書による『御家千字文』(江戸書林刊)と、王羲之(307―365)の書で馮承素(ふうしょうそ)の搨書(とうしょ)によるとされる神龍半印本『蘭亭叙』とでは、筆法があきらかに違っている。
 御家流の文字は庶民の手に渡ると、それぞれの職域で独自の発展をとげ、江戸町文化を彩る書体となった。その一つが浄瑠璃文字である。浄瑠璃文字はくねくね曲げる筆運びで文字と文字を密着させているのが特徴である。三味線が加わり義太夫で語るので、このリズム的な書き方になったのであろうか。
 御家流から浄瑠璃文字を経て、歌舞伎の勘亭流へといたる。勘亭流は、1779年(安永8)、中村座興行の絵看板に、御家流の書家であった岡崎屋勘六(1746-1805)が筆をとったのが最初といわれ、勘六の号「勘亭」から「勘亭流」の名がついたとされている。

 このほか江戸文字といわれる種々の書体がある。相撲にも独特の書体があり、相撲番付で書かれている。力量感溢れる文字で、相撲番付専門の版元だった根岸家の兼吉が、19世紀の初めに考案したので、根岸流とも言われている。一般には馴染みがないかもしれないが、今も番付担当の行司によって受け継がれている。また寄席の書体は紺屋職人の栄次郎が創始したビラ字から発展し、橘右近によって確立されたものである。橘右近が寄席文字の初代家元で、橘流とも言われている。
 また、先に挙げた勘亭流や相撲文字・寄席文字以外にも、用途によって半纏文字・提灯文字・千社札文字と称される肉太の書体がある。またその手法(文字の輪郭を書き、塗りつぶす部分に篭目状に斜線を入れた)から篭字とも言われているものである。
 鬚文字は酒樽に多く使われていた文字である。ハネの勢いを強調したスタイルで、こちらも手法から鬚文字と呼ばれているものだ。寿司とかうなぎとか氷とか、食生活に密着した文字である。

●欣喜堂 試作御家流書体「臨泉」
http://www.type-labo.jp/GIF.IMAGE/Kinkirinsen.gif

●いろいろな会社のさまざまな江戸文字(和文フォント大図鑑より)
http://www.akibatec.net/wabunfont/category/edo.html

●いろいろな会社のさまざまな勘亭流(和文フォント大図鑑より)
http://www.akibatec.net/wabunfont/category/kanteiryu.html



図案文字・POP文字

 大正から昭和初期にかけて、流行したのが図案文字である。図案文字は、アール・ヌーボーやアール・デコの影響を受けたと思われる。その多くは甘美な曲線によって構成された装飾性の強い書体で、当時の民衆に広く受け入れられたのだ。
 アール・ヌーボーのアールはフランス語で美術、ヌーボーは新しいの意である。この名称は、美術商ビングがパリに開いた美術店の名前に由来する。19世紀末パリを中心に起こった曲線を主にしたデザインの様式で、家具、ポスターから建築にまで及んだ。ビンクは1900年のパリ万国博覧会に出店し成功をおさめ、それから様式名として定着したのだ。
 アール・デコ(装飾美術)はアール・ヌーボーから発展した。デコというのはデコラティフの略称で装飾という意味だ。立体派などの新しい視覚形式とフランスの装飾趣味が混在して生まれた様式のことで、アール・ヌーボー退潮の後、フランスが巻き返しを図るために開催した1925年の国際展では、この様式が世界に広くアピールされた。
 アール・ヌーボーやアール・デコの影響を受けた図案文字は、今から見ればレトロ感覚であるが、独特の雰囲気を醸し出している。 いわゆるレタリングの世界はいままでは活字と相対する世界で、レタリング・デザイナーが腕を奮っていたのだ。そこには、一字一字丹精を込めてデザインしたような手作りの感覚があり、現代の合理主義からは決して生み出されない人間味があるといわれている。
「マヌカン」「パラソル」など、瀬野敏春氏デザインの3Mのポップ書体シリーズ(三浦滉平氏と共同制作)も図案文字といえる。意識しているかどうかわからないが、図案文字のイメージを現代に伝える書体だと思う。高原新一氏デザインの「タカハンド」や「タカライン」も、そういったイメージの書体である。

 POPとは、[Point Of Purchase] の頭文字で、直訳すれば「購買時点」ということになる。POP広告というのは、購買時点における広告のことだ。POP広告が登場したのは、スーパーマーケットの進出によるのだそうである。販売員が少なくなったため、聞かなくても買物ができるように手書きの広告が貼られ、商品に関するいろいろな情報が提供されるようになったのである。
 このPOP広告を制作する人がPOPライターだ。当初はスーパーマーケットや量販店の内部制作だったらしいが、高度成長期には需要が追いつかず、外部のPOP業者に依頼されるようになった。その後、売上げが不振になったうえに、コンピュータの出現などにより、POPライターも淘汰されることになった。
 POP広告、POPライターは、独特の書体を生み出した。これをPOP文字と呼んでいる。マーカーやフェルトペンで一気に描かれた手描き文字である。文字の点画の先端が角であったり丸であったりするのは、ペン先の形状によるものだ。
 POP文字を活字書体にしたものも生まれている。これによりPOPのコンピュータ化が促進されてきたのだろう。ただ、臨場感のある描き文字をそのまま活字書体にしたときに字並びなどの問題が生じる懸念がある。
 代表的な書体に、「NIS POP」(株式会社ニィスより発売)がある。株式会社POP研究所の中山政男氏のデザインである。中山政男氏は、日本のPOP研究の第一人者で、POP広告30年の経験と実績をもとに、親しみのある味わいを表現している。
 ほかに、「ポルA体」「ナミキPOP」(いずれも株式会社ニィスより発売)など多数ある。「ポルA体」は、西武グループのPOP広告を20年にわたり受諾してきた猪股譲氏のデザインである。「ナミキPOP」は、雑誌タイトルなどのレタリングを描かれてきた加藤辰二氏のデザインだ。
  最近では、レタリングやイラストを中心としたPOPライターではなく、販売促進の立案からコンピュータまで精通したPOPクリエイターが望まれるようになった。カルチャーセンター、通信教育などの受講生も多くなってきているようである。  
 企業名などのロゴタイプの中で、筆勢にとらわれない水平・垂直を基調としたデザインの現代的で機能的なイメージのものが注目される。これは多くのレタリング・デザイナーによって制作されている。時代に要求されたともいえるようだ。
 最近はマークとロゴタイプの機能を兼ねるロゴマークが多くなってきた。特に、日本の企業が国際的になったのでアルファベットによるロゴマークが増えてきたようだ。日本語の表記ではカタカナが多くなった。カタカナは造形的に単純なためラインを強調したデザインができる。アルファベットと同じようなシャープなイメージのロゴマークが生まれている。
 このロゴマークに共通する様式は、いわゆるゴシック体とは違う新しいカテゴリーを形成すると考えられる。斬新なデザインといわれる「ゴナ」や「ナウG」にもまだ筆勢が感じられるが、これらにはもはや筆勢はあまり感じられない。文字であることの機能を保ちながら造形的な美しさを優先させているのだ。
 漢字も含めた活字書体としてデザインされたのが、奥泉元晟氏デザインの「G2サンセリフ」である。この書体は、1992年に制作され、リョービイマジクスより発売されている。また瀬野敏春氏デザインの3Mのサイン書体シリーズ(三浦滉平氏と共同制作)の「CIエレガンス」「CIパブリック」「CIグラフィック」などもこういったロゴタイプからの書体である。

●いろいろな会社のさまざまなPOP文字(和文フォント大図鑑より)
http://www.akibatec.net/wabunfont/category/pop.html

●リョービイマジクス「G2サンセリフ」(和文フォント大図鑑より)
http://www.akibatec.net/wabunfont/library/ryobi/ryobi2.html#sansserif



装飾文字

 ファンシー(fancy)は、「装飾的な」という意味がある。欧字のファンシー書体は、18世紀から19世紀にヨーロッパ各国で数多く作られた。なかには、アラベスク(arabesque 唐草模様)と組み合わせたり、天使や花と組合せたりしたものもある。これらは、イニシャル・レターとして使われたようだ。
 日本語においてもレタリングの世界で作られていた「花文字」があるが、活字書体として一書体そろっているのは珍しいようである。漢字は画数が多く字数も多いので、制作に数倍の労力を要するうえに、用途が限られているからだろう。そのつど、必要な字種だけを作っていたのだろう。
 漢字書体としての装飾文字は、年賀用活字として何種類か販売されていたようだ。年賀用活字としているだけに、字種はそう多くはなかったと思われる。雪の積った書体や、松竹梅で作った書体など、じつに多彩である。これらはそうとう苦心して制作されたのだろうが、完成度は低いといわざるをえない。当然ながら文章組は無理だろうが、イニシャル・レターとして使えばおもしろいのではないかと思う。
 現代のファンシー書体としては、故鈴木勉氏デザインの「スーボ」が挙げられる。「スーボ」は、第2回石井賞創作タイプフェイス・コンテスト(1972年)で第1位を獲得した書体である。鈴木氏は当時23歳だったが、とても20代前半に制作したとは思えない完成度がある。
「スーボ」は、線をくい込み重ねるという装飾性と、大らかでユーモラスなイメージで、ファンシー書体の先鞭をつけた。制作されてから30年以上が経過したが、今も輝きを失っていない。効果的な使い方を期待したいところである。

●スーボ 才能の文字(字游工房 鈴木勉の本より)
http://www.jiyu-kobo.co.jp/works/suzukibook_text.html#Anchor-002

 


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