寄稿:欣喜堂★活字書体設計 今田欣一
書体の基礎知識 和字書体編

黎明本様体─和字のヴェネチアン・ローマン体明治本様体─和字のオールド・ローマン体(前編)明治本様体─和字のオールド・ローマン体(後編)昭和本様体─和字のトランジショナル・ローマン体豊満本様体─和字のモダン・ローマン体筆耕本様体─和字のイタリック体時様体─和字のサン・セリフ体和様体─写本系統 「和字のスクリプト体1」和様体─古活字版・木版系統「和字のスクリプト体2」和様体─古活字版・木版系統「和字のスクリプト体3」和様体─金属活字「和字のスクリプト体4」その他「和字のアンチック体」
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黎明本様体──和字のヴェネチアン・ローマン体

 和字(平仮名と片仮名)書体の歴史とは、おもに文芸書をしるした「和様漢字+平仮名」の系統と、おもに学術書をしるした「楷書漢字+片仮名」の系統があります。
 前者は欧字書体のイタリック体もしくはスクリプト体に相当し、後者はローマン体に相当するものと考えられます。この「楷書漢字+片仮名」の系統において、片仮名とならんで平仮名が登場したとき、和字のローマン体が誕生したといえるでしょう。
 それは江戸時代後期のことです。今回は、国学・蘭学の三冊の書物から、和字のヴェネチアン・ローマン体誕生のそのときにせまっていきたいと思います。

1 『字音假字用格(じおんかなづかい)』 1776 錢屋利兵衞

 京都の錢屋利兵衞によって1776年(安永5)に刊行されました。序題は「字音迦那豆訶比」、版心書名は「字音かな」となっています。序は須賀直見が書いています。一冊のみで、27cmサイズの四つ目綴じ製本です。
 著者の 本居宣長(1730―1801)は江戸中期の国学者です。伊勢の人で、号を舜庵(春庵)・鈴屋といいます。京都に出て医学を修める一方で、源氏物語などを研究しました。のちに賀茂真淵に入門しました。古道研究をこころざし、「古事記伝」の著述に30余年にわたって専心しました。
 また、「てにをは」や用言の活用などの語学説、「もののあはれ」を中心とする文学論、上代の生活・精神を理想とする古道説など、多方面にわたって研究・著述に努めました。
 著書に『初山踏(ういやまぶみ)』『石上私淑言(いそのかみささめごと)』『詞の玉緒』『源氏物語玉の小櫛(おぐし)』『古今集遠鏡』『玉勝間』『鈴屋集』などがあります。

2 『仮字本末』 1850  三書堂

 国学とは江戸中期に興った文献学的方法による古事記・日本書紀・万葉集などの古典研究の学問で、儒教・仏教渡来以前の日本固有の文化を究明しようとしたものです。契沖(けいちゆう)を先駆とし、荷田春満(かだのあずままろ)・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤(ひらたあつたね)らによって確立しました。皇学(皇国の学の意)ともいいます。
 文政年間に書かれた国学者・伴信友(1773―1846)の遺稿をその子信近が校訂し、1850年(嘉永3)3月に長沢伴雄(1806―59)の序を添えたうえで、江戸・大坂・京都の書肆から刊行されたのが『仮字本末』です。
 刊本は上巻之上、上巻之下、下巻、付録の合計4冊からなっており、朝鮮綴で薄紺色無地の表紙がつけられています。「楷書漢字+平仮名」が登場した初期の印刷物だと思われます。

3 『歩兵制律』 1865  陸軍所

 洋学とは西洋の学問のことです。とくに蘭学とは江戸中期以降、オランダ語によって西洋の学術・文化を研究した学問です。享保年間(1716―1736)、青木昆陽・野呂元丈(のろげんじよう)の蘭書の訳読に始まり、前野良沢(まえのりようたく)・杉田玄白・大槻玄沢(おおつきげんたく)ら多数の蘭学者が輩出、医学・天文学・暦学・兵学・物理学・化学など自然科学全般にわたりました。
 大鳥圭介(1833―1911)は、縄武館につとめていたとき、『築城典刑』『砲科新論』を翻訳して、独自の活字をもちいて出版することに着手しました。大鳥は西洋の活字が便利だということを知って、独力で蘭書にもとづいていろいろ研究したそうです。
『歩兵制律』(陸軍所 1865 印刷博物館所蔵)は、オランダの書物を開成所の教員であった川本清一が翻訳し、大鳥の金属活字をもちいて印刷したものです。『歩兵制律』は「楷書漢字+平仮名」で組まれています。

●字音假字用格(じおんかなづかい)
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●仮字本末
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●歩兵制律
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明治本様体──和字のオールド・ローマン体(前編)

 長崎製鉄所主任だった本木昌造は、ウィリアム・ガンブルを活版伝習所の技師長として招聘しました。ここでは活字鋳造法と活字版印刷術全般にわたる技術を伝授しました。これがわが国の活字版印刷術の基礎となったのです。
 まもなく長崎製鉄所付属活版伝習所は解散し、その源流は二派に分かれました。ひとつは本木昌造の流れを汲む門人達によって全国に覇をとなえた一派で、その代表が東京築地活版鋳造所です。他のひとつは製鉄所にとどまって活字製作に従事した人達で、のちに工部省勧工寮活版所となり、幾多の変遷をへて官業活版の源流を受け継いだのが内閣印刷局(現在の国立印刷局)です。これらとは別に神崎正誼による活版製造所弘道軒では、独自の活字書体をあらたに制作しました。
 これらの和字書体に共通するのは、黎明期本様体(和字のヴェネチアン・ローマン体)がもっていた彫刻風の荒々しさが少なくなり、丸みを帯びた動きのなる書風にと変化しているということです。これを明治本様体(和字のオールド・ローマン体)としたいと思います。

1 『二人比丘尼色懺悔』 1889  活版製造所弘道軒

 神崎正誼(1837―91)は1874年(明治7)に「活版製造所弘道軒」を創立しました。そして新しい活字書体の版下の揮毫を、書家の小室樵山(正春 1842―93)に依頼しました。
 尾崎紅葉の『二人比丘尼色懺悔』(吉岡書籍店 1889)にも、本文に四号相当の弘道軒清朝体が用いられています。新著百種の第一作として刊行されたもので、印刷は国文社です。『二人比丘尼色懺悔』は、奇遇の巻・戦場の巻・怨言の巻・自害の巻からなっています。

2 『長崎地名考』 1893  東京築地活版製造所

 株式会社東京築地活版製造所の初代社長・平野富二は、1889年(明治22)に社長を辞任しました。本木昌造の長男・本木小太郎が社長心得になりますが、本木小太郎は病弱だったので、曲田成が3代目社長に就任しています。
 香月薫平著『長崎地名考』は、上巻・下巻・附録の3冊からなっています。1893年(明治26)11月に長崎の虎與號商店から発行されています。奥付には、印刷所は東京築地活版製造所、印刷人は曲田成(1846―94)とあります。

3 『内閣印刷局七十年史』 1943  内閣印刷局

 印書局は明治5年9月に創設されて、はじめは太政官正院の中におかれていました。明治7年に工部省製作寮所管の活版所(勧工寮が明治6年11月に廃止されて製作寮の所管に移る)を移管併合して、明治8年に大蔵省紙幣寮に属することになります。
 1877年(明治10)年4月、大蔵省紙幣局となったときに、紙幣局活版部で『活版見本』が発行されています。ここにみられる平仮名、とりわけ5号平仮名が『内閣印刷局七十年史』の本文で用いられた書体の源流だと思われます。
『内閣印刷局七十年史』の本文に用いられた和字書体は、印刷局の伝統的な書風であり、明治前期の典型的な書風といってもいいのではないでしょうか。

●二人比丘尼色懺悔
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●長崎地名考
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●内閣印刷局七十年史
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明治本様体──和字のオールド・ローマン体(後編)

 東京築地活版製造所と並び称せられるのが秀英舎鋳造部製文堂です。1882年(明治 15)東京築地活版製造所から小倉吉蔵を招いて製文堂を創設して、活字の製造販売に進出したのがはじまりです。秀英舎は、1935(昭和10)に日清印刷と合併して大日本印刷となりました。
 青山進行堂活版製造所は東京築地活版製造所系統の活字書体を継承していたと思われます。江川活版製造所と特約して活字製造に着手し、都村活版製造所、岡島活版所の活字書体を継承しましたが、1916年(大正5)には「篆書ゴシック」を開発して業界の注目を集めました。国光社は吉田晩稼が版下を書いたといわれる独自の活字書体を開発しています。
 これらの和字書体もまた、丸みを帯びた動きのある明治本様体(和字のオールド・ローマン体)ですが、昭和本様体(和字のトランジショナル・ローマン体)の萌芽もみられます。

1 『尋常小學國語讀本 修正四版』 1901  国光社

 西澤之助(1848―1929)は1888年(明治21)に国光社を創立しました。国光社は伝統的な女子教育の雑誌 『女鑑』 などで一定の地歩を占めました。
 1900年(明治33)に西澤之助は国光社社長を辞し、日本女学校を設立しています。また国光社は多くの教科書を発行している大手教科書会社でもありました。
 国光社活字とは国光社が独自に開発したとされる書体で、吉田晩稼(香竹1830―1907)が版下を書いたといわれています。

2 『少年工芸文庫第八編 活版の部』 1902  秀英舎

『少年工芸文庫』は全12冊発行されています。著者の石井研堂(民司1865―1943)は、民衆の立場から明治以来の日本の近代化を探求・記録した博物学者です。
 発売元の博文館は、明治時代には日本の出版界をリードしていましたが、大正から昭和にかけて雑誌を中心に発展してきた講談社などに押され、終戦後に解散してしまいました。大日本印刷の前身の秀英舎で印刷されていますので、本文はいわゆる秀英舎前期四号です。

3 『富多無可思』 1909  青山進行堂活版製造所

 青山安吉(1865―1926)は1909年(明治42)5月、青山進行堂活版製造所の創業20年を記念して『富多無可思』を発行します。この約300ページにもおよぶ線装(袋とじ)の記念誌は、活字の見本帳であり、印刷機械などの営業目録でもあります。
『富多無可思』の青山安吉による「自叙」は四号楷書体活字、竹村塘舟による「跋」は四号明朝体活字で組まれていますが、和字書体は共通のものです。

●尋常小學國語讀本 修正四版
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●少年工芸文庫第八編 活版の部
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●富多無可思
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昭和本様体──和字のトランジショナル・ローマン体

 昭和前期の活字書体の制作は、大きくふたつにわけられます。ひとつは活字鋳造会社系で、一般販売もしくは自社の印刷機械用として制作しました。もうひとつは印刷会社・出版社系で、自社の印刷物・出版物専用として制作しました。
 そのなかで三省堂、精興社のような「印刷会社・出版社系」は、とりわけ明朝体と組みあわせることを目的とした本文用和字書体で独自性を出すように、しのぎを削ってきたようです。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)から1950年(昭和25)までの約四年間、北海道では札幌市を中心として出版ブームがおこりました。このときに北海道各地で刊行された文芸書や教養書を「札幌版」といいます。
 一方で、活字鋳造会社系の津田三省堂では、昭和10年代に中国から正楷書体、宋朝体などを輸入し、それらと組みあわせるための和字書体を開発しました。

1 『日本印刷需要家年鑑』(1936) 川口印刷所

 印刷出版研究所『日本印刷需要家年鑑』のなかに、「組版・印刷・川口印刷所 用紙・三菱製紙上質紙」と明記されたページが16ページほどありました。これに用いられた活字が川口印刷所の9ポイント活字でした。
 川口印刷所は1911年(明治44)3月の創業です。川口芳太郎(1896―1985)が社長に就任してから、大きく発展をとげたそうです。1947年(昭和22)9月には、現在の社名である図書印刷株式会社となっています。

2 『聖書教科書パウロ傳』(1938) 三省堂印刷

 1881年(明治14)創業の三省堂は、最初は書店としてスタートしました。やがて出版事業を開始して、1895年(明治28)には付属の印刷工場をもち、1921年(大正10)には通称ベントン母型彫刻機を購入しています。
 三省堂において、活字書体制作に主要な役割をはたしたのが今井直一(1896-1963)です。その著書『書物と活字』(印刷学会出版部)に影響を受けた人は多いといわれています。
 三省堂明朝体は1932年(昭和7)に8ポイントが完成しています。さらに、9、10、12ポイントが整備されました。ただしほとんど一般に販売されることはなくて、自社の出版物や外部から受注した印刷物に限られたようです。

3 『世界史生體論』(1944) 精興社
精興社は1913年(大正2)に東京活版所として創業されました。1925年(大正14)に精興社と改められました。当初は博文館印刷所(共同印刷の前身)から活字を買っていたようです。
 自社の活字書体の制作にふみきったのは昭和初期です。種字彫刻は博文館印刷所の種字彫刻者だった君塚樹石に依頼しました。精興社明朝体は1930年(昭和5)に完成した5号明朝体をかわきりに、順次整備されていきました。1995年(平成7)8月には、鋳造活字からデジタルタイプへ全面的に移行しました。この精興社明朝体は、今も脈々と生き続けています。


●日本印刷需要家年鑑
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●聖書教科書パウロ傳
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●世界史生體論
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豊満本様体──和字のモダン・ローマン体

 一般に新聞用書体というときには扁平の本文書体をさします。はじめて新聞に扁平活字が登場したのは太平洋戦争がはじまった1941年(昭和16)のことです。それまでは一般書籍用と新聞用との区別はなく、同じように正体の書体が使われていました。
 この変更のおもな要因は用紙事情の悪化によるものです。質の悪い新聞用紙に膨大な情報量を詰め込まなければならなかったのです。当時は1行15字詰めで活字サイズも小さいものだったので、可読性をたもつためには抱懐をできるだけ大きくする必要があったのです。
 こうして扁平で抱懐を大きくした新聞用書体のスタイルが定着しました。1行11字詰めで活字サイズも大きくなり、一部に正体の書体が使用されるようになった現在でも、その書体デザインのスタイルは継承されています。
 太平洋戦争後には戦時中の新聞統制が行われていた暗い不自由な時代から一転して、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の一連の新聞解放政策によって、全国各地で数多くの新聞が生まれました。これらは「新興紙」といわれ、その数は1000紙以上といわれています。
 福岡県では、朝日新聞系の「九州タイムズ」、毎日新聞系の「新九州」が夕刊専門紙として発行され、地元の西日本新聞社の支援をうけた「夕刊フクニチ」が発行されました。しかしながら1949年(昭和24)ごろになると、全国の新興紙の多くは休刊・廃刊に追い込まれ、「九州タイムズ」もまた姿を消しています。
 一般印刷用書体のなかにも、そのスタイルを色濃く反映しているものがあります。その代表的な書体がモトヤ明朝体と小塚明朝体の和字書体だと思われます。このことにより「豊満本様体」という分類にしました。

九州タイムズ 1946年4月14日付け第1面より
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筆耕本様体──和字のイタリック体

 これまで見てきた黎明本様体・明治本様体・昭和本様体・豊満本様体とは、いわば彫刻系統の本様体だといえます。これとは別に書写系統の本様体も存在します。書写系統の本様体は、小学校教科の書方手本や、木版印刷の教科書、教科書用活字書体(教科書体)として展開されました。

1 『啓蒙手習之文』(1871) 慶応義塾

 内田嘉一(晋斎)は1868年(慶応四)閏4月15日に慶応義塾に入門し、そこで福沢諭吉の信頼を得て、福沢の著書の版下を依頼されるようになりました。福沢は1871年(明治4)の初夏には『啓蒙手習之文』(慶応義塾出板)を刊行しました。巻菱湖書風で書かれた内田の書は、諭吉が提唱する「文字は分明でありたい」という考えを実践したものです。

2 『国文中学読本』(1892) 吉川半七

 尋常中学校国語科教科書である『国文中学読本』は、木版印刷で四つ目綴じになっています。発行兼印刷者の吉川半七は、現在の吉川弘文館の創業者とされている人です。1863年(文久3年)に貸本業を営んでいた近江屋嘉兵衛の養子になり、1870年(明治3年)には新店舗、近江屋半七書店を開業しています。1877年(明治10年)より出版業も兼ね、多くは「吉川半七」個人名をもって発行所としていました。1887年(明治20年)に出版専業となっています。なお、吉川弘文館の名称は没後の1904年(明治37年)になってから使用されています。

3 『ヨミカタ』『よみかた』(1941)  文部省

 井上千圃(高太郎 1872―1940)は大正時代の後半から国定教科書の木版の版下を一手に引き受けており、従来との一貫性をたもつということから文部省(現在の文部科学省)活字の版下も井上に依頼することになりました。この活字は1935年(昭和10)発行の『小学国語読本巻五』にはじめて使用されました。これがいわゆる文部省活字で、国民学校時代の国定第5期教科書『ヨミカタ』『よみかた』にも使用されています。教科書専用として制作されたために、のちに「教科書楷書体」「教科書体」とよばれるようになりました。

●啓蒙手習之文
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●国文中学読本
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●ヨミカタ
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時様体──和字のサン・セリフ体

 和字ゴシック体(時様体)は小見出し用の使用にとどまり、一般印刷物のなかでキャラクターのサンプルをさがしだすのは困難でした。したがって、メーカーのカタログから、代表的な書体をみていくことにします。

1 東京築地活版製造所『活版見本』(1903)  

 東京築地活版製造所は1903年(明治36)11月1日に、わが国の活字版印刷史上最大規模の438ページにもおよぶ見本帳を発行しました。この見本帳に掲載された「5号2分ノ1ゴチック平仮名」および「5号ゴシック片仮名」は、和字ゴシック体(時様体)が見本帳に登場した最初の書体のひとつであろうと思われます。その字様は漢字書体の隷書体の影響も顕著に見られます。

2 森川龍文堂活版製造所『活版総覧』(1933)

 森川龍文堂は1902年(明治35)1月、森川竹次郎によって大阪に創業された金属活字鋳造と印刷機器販売をおこなう会社でした。森川健市が第二代社長に就任して、昭和初期には『活版総覧』(1933)や『龍文堂活字清鑒』などの活字見本帳を積極的に作成しています。ここにあらわれた和字ゴシック体(時様体)12ポイント活字が森川龍文堂のオリジナルかどうかはわかりませんが、もっともスタンダードな形象であると思われます。

3 民友社活版製造所『活字見本帳』(1936)

 民友社活版製造所は1901年(明治34)に初代渡辺宗七によって東京・銀座で創業されました。渡辺宗七が徳富蘇峰と親交があったことから、民友社出版部、印刷部とも業務提携をしていました。出版を中心としていた民友社がなくなったあとには、民友社活版製造所がその名称を継承することになりました。民友社活版製造所の『活字見本帳』(1936)には和字ゴシック体(時様体)5号活字などが掲載されています。

 あたらしい和字ゴシック体(時様体)の書体も多く設計され、ひろく使用されているようです。黒柳徹子著『窓ぎわのトットちゃん』(講談社 1981)にはタイポス(グループ・タイポ設計)が使われています。絵本などではNTLG(佐藤豊設計)も見かけます。また、漢字も含めた書体ですが、ゴナM(中村征宏設計)が杉村津留子著『天皇さま御異常不奉拝』(小学館 1986)に使われています。

●東京築地活版製造所『活版見本』
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●森川龍文堂活版製造所『活版総覧』
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●民友社活版製造所『活字見本帳』
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和様体──写本系統 「和字のスクリプト体1」

1 国風文化──御物『粘葉本・和漢朗詠集』(1013?)

 菅原道真の建白により894年に遣唐使が廃止されると、中国文化の受容がとだえ、わが国独自の文化の発達がみられるようになりました。これを国風文化といいます。
 奈良時代には、貴族社会の知的活動は中国の古典を読み漢文を作ることが中心で、真仮名で書かれた『万葉集』にしても宮廷の主流ではありませんでした。ところが和字が成立すると貴族たちの間に和歌への関心がうまれ、和歌による社交が流行し始めたのです。紀貫之らによって『万葉集』につぐ勅撰和歌集である『古今集』が撰進されました。
 国風文化の中心は和字の成立であり、和語と和文で作られた国文学が平安時代の文化の機軸でした。紀貫之の『土佐日記』は和文の文学作品の先駆となり、紫式部の『源氏物語』や清少納言の『枕草子』など女性の手になる国文学の傑作が生まれました。
『古今集』や『和漢朗詠集』などの写本が多く残されており、多くの能書家が活躍したことがうかがえます。その象徴が藤原行成で「行成様」ともいわれます。行成が書いた和字は存在していませんが、行成の子孫によって継承された書法の流派を「世尊寺流」といいます。
 京都市上京区芝大宮町・五辻町・紋屋帳・聖天町・伊佐町・硯屋町・樋之口町の一帯は、藤原行成の邸宅である桃園第があったところで、行成はここを世尊寺という寺にしていました。現在ではその面影はまったくありません。

2 鎌倉文化──御物『定家筆・更級日記』(1230?)

 鎌倉幕府が成立すると、政治権力は鎌倉に移動して京都は文化の担い手としての公家の都となり、また高度な技術を伝える職人の町にもなりました。公家はその文化面の専門性をたかめて武家に対抗する権威をもとうとし、それを家業として受け継ぐようになったのです。
 公家文化を代表するもののひとつに和歌があります。さまざまな機会に歌によって勝ち負けを競う「歌合わせ」が催されましたが、その判定をくだす審査員は、深い知識をもった専門歌人であることが条件となりました。
 書写では藤原行成の子孫による世尊寺流とともに、藤原忠通を祖とする法性寺流が流行しました。それぞれが流派として継承されましたが、書風として同じ系統だとは見なしがたく、統一されたものではありません。
 鎌倉時代(1192―1333)を代表する書風は法性寺流ですが、藤原俊成も藤原定家(1162―1241)もこれを踏襲することはなく、それぞれが個性的な書風を確立しました。俊成書風は一代限りでしたが、定家書風は茶人の間で愛好されて「定家様」といわれます。
 藤原定家の墓所は京都市上京区にある相国寺にあります。また右京区には定家の山荘跡で小倉百人一首発祥の地とされる厭離庵がありますが、現在は公開されていません。

3 北山文化──『金春本・風姿花伝』(室町前期?)

 室町時代(1338―1573)には芸能が豊かな展開をみせて、伝統として受け継がれるような成熟に到達しました。芸能とは人間の身体で表現する技法と型の伝承をいい、歌謡・舞踊・演劇などが代表的なものです。
 書写では、鎌倉末期から世尊寺流の流れをくむ伏見天皇の皇子・尊円法親王(1298―1356)の青蓮院流が広まりました。青蓮院門跡であった尊円法親王は、早くから書を世尊寺流の藤原行房や行尹に学び、穏やかさと力強さをあわせもつ青蓮院流を創始しました。青蓮院流もまた書風として伝承されているのではありません。
 平安時代の後期に、さまざまな芸能の中で人気を集めていたのは猿楽と田楽でした。とくに猿楽は寺社の行事に取り入れられて庇護されました。鎌倉時代には物まねに優れた大和猿楽と、歌舞を重んじた近江猿楽が知られました。
 観阿弥清次は物まねを主としていた大和猿楽をベースに、近江猿楽の華麗な歌舞をあわせ、さらに田楽の律動感をもとりいれた新しい芸風をつくりました。足利義満に注目されて後援を受けるようになり、京都に進出して活動の場を広げました。
 奈良県磯城郡川西町結崎には面塚と観世発祥之地碑が建てられています。また京都市東山区の新熊野神社には猿楽大成機縁の地をしめす碑があります。ここは世阿弥元清がはじめて足利義満と出会ったところで、義満は世阿弥の美しさにひかれて寵愛するようになりました。

4 東山文化──奈良絵本『さよひめ』(室町後期?)

 室町時代から江戸初期に流行した物語類は御伽草子あるいは室町物語ともいわれますが、その一部は挿絵入りの短編物語の「奈良絵本」の形で伝来しています。「奈良絵本」は横本・縦本・大型縦本の三つにわけられ、紺紙に金泥で秋草などを描いており朱の題簽をもつものが多いようです。また嫁入り本とも呼ばれています。
 その挿絵は、泥絵具を用いた奈良絵風のものと、細密華麗な作風のものとがあります。ともに天地にすやり霞をつけた定形の構図を持っていて、いずれも朱や緑などの鮮やかな色彩と金銀箔・泥の使用がめだっています。
 奈良絵本はその多くが京都周辺で作られたと考えられていますが、その制作者や制作時期などの詳細は不明です。

●粘葉本・和漢朗詠集
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●定家筆・更級日記
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●金春本・風姿花伝
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●さよひめ
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和様体──古活字版・木版系統「和字のスクリプト体2」

A古活字版

1 桃山文化──『ぎや・ど・ぺかどる』(1599)

 安土桃山時代(1576―1600)とは、一面では南蛮文化の時代でした。この南蛮文化とはポルトガルなどの宣教師・貿易商によって伝えられた西洋文化のことです。医学・天文学や芸術のほかに、鉄砲製造などの技術が伝えられ、キリシタン版の書物が刊行されました。
 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano 1530―1606)は、安土桃山時代に来日したイタリア人のイエズス会の司祭です。1582年(天正10)に天正少年遣欧使節団を引き連れて離日したヴァリニャーノは、1590年(天正18)に帰国する天正少年遣欧使節団をともなって、インド副王使節として2度目の来日をしました。
 このとき印刷機、活字、その他の印刷機材一式が持ち込まれました。長崎県南高来郡北有馬町にあったコレジョは、切支丹禁止令のために人目をしのんで転々と場所をかえ、天正少年遣欧使節団が帰国したときには、コレジョは長崎県南高来郡加津佐町にありました。こうして加津佐のコレジョに印刷機材一式がはこばれ、ついにキリシタン版の印刷がはじまったのです。
 すぐに加津佐のコレジョが危険になってきたために、もっと人目につかないところに疎開しなければならなくなり、現在の熊本県天草郡河浦町が選ばれました。1592年(文禄元)まで各地を巡察してゴアに戻ったヴァリニャーノは、日本巡察のために1598年(慶長3)に3度目の来日をしていますが、このころキリシタン版の印刷所は河浦から長崎へ移転していました。
 長崎市の華嶽山春徳寺の山門の脇に、「トードス・オス・サントス教会 コレジョセミナリオ跡」の碑が立っています。1966年(昭和41)4月18日に長崎県指定史跡となっています。このトードス・オス・サントス教会にキリシタン版の印刷所がおかれました。このあたらしい教会において『ぎや・ど・ぺかどる』が印刷されたようです。

2 寛永文化──『嵯峨本・伊勢物語』(1608)
寛永年間(1624―1643)を中心とした文化は、桃山文化の豪華さを継承したものでした。その担い手は武士・町人で、幕藩体制確立期の文化です。
 建築では権現造の日光東照宮、数寄屋造の桂離宮などが知られています。絵画では幕府御用絵師で鍛冶橋狩野派の祖である「大徳寺方丈襖絵」を描いた狩野探幽(1602―1674)、宗達光琳派いわゆる琳派の祖で「風神雷神図屏風」を描いた俵屋宗達(生没年未詳)が活躍しました。
 本阿弥光悦(1558―1637)は刀剣鑑定の名家である本阿弥家の分家に生まれましたが、書や陶芸などにもすぐれ、1615年(元和元)には徳川家康より京都・洛北の鷹峯たかがみねの地を賜り、芸術村を営んでいます。書は「寛永の三筆」の一人といわれています。
 ところで、京都の嵯峨で本阿弥光悦・角倉素庵らが、寛永以前の慶長・元和(1596―1624)にかけて刊行した嵯峨本は、主に木活字をもちいて用紙・装丁に豪華な意匠を施した美本で、『伊勢物語』など13点が現存しています。
 京都市北区鷹峯光悦町の光悦寺は、緑に包まれた細い参道が本堂に通じています。回廊の下をくぐって木立の中を行けば、三巴亭、大虚庵などの7の茶席が散在しています。この地は、光悦が一族や職人とともに移り住んで芸術村を作ったところなのです。

●ぎや・ど・ぺかどる
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●嵯峨本・伊勢物語
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和様体──古活字版・木版系統「和字のスクリプト体3」

B 木版系統

1 元禄文化1──『世間胸算用』(1692)

 元禄年間(1688―1704)には上方の経済がめざましい発展をとげました。大坂と京都を中心に町人層が新しい文化の担い手になり、庶民の生活や心情を描いた上方文学が生まれました。上方とは「上(皇居)のある方角」という意味で、京都およびその付近一帯をさすことばです。元禄時代を中心として大坂と京都で行われた町人文学を上方文学といいます。
 近世社会の仕組みが姿をあらわすなかで、都市の多様な生活を描き、生命力にあふれた人間の心情をとらえようとしたのが上方文学でした。そこにおおきな足跡を残したのが、浮世草子の井原西鶴(1642―93)、浄瑠璃の近松門左衛門、そして俳諧の松尾芭蕉の三人です。
 江戸時代になると青蓮院流は御家流と呼ばれて、調和のとれた実用の書として定着しました。徳川幕府は早くから御家流を幕府制定の公用書体として、高札、制札、公文書にもちいるように定めました。さらに寺子屋の手本としてもひろく採用されたことで大衆化し、あっという間に全国に浸透しました。
 井原西鶴の墓所は大阪市中央区の誓願寺にあり、その銅像は天王寺区の生国魂神社にあります。どちらも近鉄難波線上本町駅の近くです。

2 元禄文化2──『曾根崎心中』(1703)
 
 近松門左衛門(1653―1724)は、江戸中期の浄瑠璃・歌舞伎作者です。越前の人で、本名は杉森信盛。坂田藤十郎(1647―1709)のために脚本を書き、その名演技と相まって上方歌舞伎の全盛を招きました。また、竹本義太夫(1651―1714)のために時代物・世話物の浄瑠璃を書き、義太夫節の確立に協力しました。代表作に「国性爺合戦」「曾根崎心中」「心中天網島」「女殺油地獄」などがあります。
 浄瑠璃は語り物のひとつで、室町中期から琵琶や扇拍子の伴奏で座頭とよばれる盲目の琵琶法師が語っていた牛若丸と浄瑠璃姫の恋物語に始まるとされます。のちに伴奏に三味線を使うようになり、題材・曲節(ふしまわし)両面で多様に展開しました。
 また、義太夫は貞享年間(1684―1688)に竹本義太夫が始めた浄瑠璃の流派のひとつです。のちに竹本・豊竹二派に分かれました。物語の筋やせりふに三味線の伴奏で節をつけ語るもので、操り人形劇と結びついて発達しました。これが人形浄瑠璃です。
 人形浄瑠璃は、三味線伴奏の浄瑠璃に合わせて、人形を遣う人形劇です。慶長年間(1596―1615)に発生し、貞享年間(1684―88)には作者の近松門左衛門と太夫(語り手)の竹本義太夫が提携して成功をおさめて以後、おもに義太夫節によって行われるようになりました。
 ここに浄瑠璃は「義太夫」の異称となりました。なお大正中期以降、文楽座が唯一の専門劇場となったところから、人形浄瑠璃芝居を「文楽」ともいいます。ですから浄瑠璃と義太夫と文楽は、同義語といってもさしつかえないでしょう。
 近松門左衛門の墓は兵庫県尼崎市の広済寺にあり(墓は大阪市中央区にもあります)、広済寺のちかくの近松公園には銅像と近松記念館が建てられています。また大阪市中央区道頓堀の戎橋ちかくに竹本座跡があります。

3 化政文化──『偐紫田舎源氏』(1829―42)

 文化・文政年間(1804―30)には江戸の都市機能がととのい、上方とは違う文化が形成されるようになりました。文化の中心も上方から江戸に移りました。江戸では粋やつう通を尊び、軽快・洒脱を好む傾向がありました。
 歌舞伎は江戸を拠点として人気を呼び、鶴屋南北(1755―1829)は『東海道四谷怪談』などを生み出しました。また浮世絵も個性的な絵師が多くあらわれ、彫師・摺師との共同作業が展開されて大衆に受け入れられていきました。
 文学では元禄時代の上方文学と区別して、江戸文学とよばれます。江戸文学とは、明和・安永ごろから幕末まで江戸で行われた文学をさします。文化・文政のころに最盛期を迎え、読本・洒落本・滑稽本・人情本・黄表紙・合巻があります。
 柳亭種彦夫妻の墓は品川区の浄土寺墓地に父・知義夫妻の墓とならんで建てられています。左側面には辞世「散ものにさだまる秋の柳かな」が彫られています。

●世間胸算用
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●曾根崎心中
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●偐紫田舎源氏
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和様体──金属活字「和字のスクリプト体4」

1 新街活版所・平野活版製造所

 本木昌造が1870年(明治3)に、新街私塾のなかに創業したのが新街活版所です。その新街活版所で印刷された『長崎新聞 第四號』にもちいられた活字の版下を揮毫したのが池原香穉(1830―1884)です。池原は長崎の池原香祗の二男として生まれました。実兄の池原枳園は書家として知られます。池原は国学者で眼科医の上田及淵、儒学者で書家の仁科白谷に師事し、また吉田松陰とも関わり朝廷を崇拝し勤王を唱えました。
 また商工業を奨励したといいます。池原は26歳で眼科医を開業、本木昌造とは長崎の歌壇の仲間でした。薩摩藩の重野安繹が上海より輸入しながら放置されていた活字と印刷機を本木昌造に紹介したということからも、活字や印刷にも関心を寄せていたことがうかがえます。
 池原は1876年(明治9)に宮内省文学御用掛に任ぜられ、『美登毛能数』を記しています。

2 江川活版製造所・青山進行堂活版製造所

 江川活版製造所は、福井県出身の江川次之進(1851―1912)が創立しました。1883年(明治16)に活字の自家鋳造を開始するために、もと東京築地活版製造所の種字彫刻師であった小倉吉蔵の弟「字母駒」をまねきました。
 1885年(明治18)年に行書体活字の制作に着手したものの失敗に終わりますが、1886年(明治19)になって、あらためて著名な書家の久永其頴(多三郎)に版下の揮毫を依頼し、3、4年を費やして二号が、ついで五号活字が完成、売れ行きも良好でした。ひきつづき三号活字を製作、『印刷雑誌』第2巻第9号(1892)に発売予告(11月15日発売)の広告を出しています。なおこの行書体活字は、1895年(明治28)に青山進行堂活版製造所によっても母型が製造され市販されています。
 久永其頴の著書としては『楷書千字文』(東京・求光閣 1893)があります。

3 岡島活版所・青山進行堂活版製造所

 湯川梧窓(享 1856―1924)は大阪で生まれました。幼時から書を学び、張旭、黄山谷その他古法帖によって研究して一家をなし、村田海石と並び称されたそうです。著書に『四体千字文』(大阪・青木嵩山堂 一八九五)、『普通作文』(大阪・大岡万盛堂 1895)などがあります。
 湯川梧窓が版下を制作した南海堂行書体活字は、大阪の岡島活版所において製造されていましが、1903年(明治36)に岡島氏の急逝により岡島活版所が廃業するに際して中止となっていました。それを青山進行堂活版製造所が継承したのである。南海堂行書体活字には二号から五号までの各シリーズがありますが、いずれも豪快でスケールの大きな筆致です。なかでも三号活字がもっとも整っています。
 青山進行堂活版製造所では、さらには湯川梧窓の版下による南海堂隷書体活字、南海堂草書体活字を追加しています。

● 平野活版製造所『BOOK OF SPECIMENS』(12ページ、三号活字)より
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●青山進行堂活版製造所『富多無可思』(62ページ、參號行書活字)より
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●青山進行堂活版製造所 『富多無可思』(90ページ、南海堂參號行書活字)より
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その他「和字のアンチック体」

『辞苑』(1935) 博文館 

 アメリカからの書体「antique」からの影響を受けて制作され、辞書などの見出し語として用いられた和字書体にアンチック体があります。
『広辞苑』以前に新村出の編著で『辞苑』という国語辞典が1935年(昭和10)に発刊されていました。この『辞苑』は博文館から出版され、大ベストセラーとなっていました。
『辞苑』には、見出し語にアンチック体の和字書体がもちいられていました。もちろん『広辞苑』初版の見出し語もアンチック体の和字書体でした。ところが『広辞苑』第五版の見出しは太明朝体用としてつくられていた和字書体のようです。初版でも第五版もアンチック体の説明で「本辞典の項目に用いた見出しのかな文字」がアンチック体である、としたために混乱が生じています。
 そこで筆者は、アンチック体と太明朝体用和字書体とは異なる書体とみたいと思います。たとえば「の」の頂点がほぼ同じ太さになっているのがアンチック体、細くなっているのが太明朝体用和字書体ということができます。
 新村出(1876―1967)は京大教授で、ヨーロッパ言語理論の導入に努め、日本の言語学・国語学の確立に尽力しました。とくに国語史や語原・語誌・語釈に関する研究、外来語や南蛮文化に関する考証などの多方面にわたる業績をあげました。

●辞苑
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